かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「いなくなっても生きるというような美学」と

「いなくなっても生きるというような美学」と「強烈に残って生きる美学」

 

どちらが優れているかはご法度である。が、前者は実感がなくて、なんか寂しい(笑)

ただ、その優しさに気がつける人間であってほしいという願いがなくはない。意地汚い感じがする。でも、そうすれば、要は「私が至らなかった」で済むからよい。それは、そんな姿の私を見「十分与えている」と親友が形容してくれるからだ。それで、いくらか慰められる。生きられる。生きていこうと思える。そうやって、誰かに命を繋ぎ止められてここまで来たのではないかと思う。有り難くて、嬉しい。いつも誰かがいた。いる。そういう儚い切ない命だから自分がかわいそうで嫌いになれないのかもしれない。ここも(笑)

 

そのどちらもは、相手によって何が残るのかによって、違うだけだろうと思う。

 

そこには、人それぞれのふるいがあるわけだ。

自分の中に残っているあの人やあの人やあの人は誰かの中には残っていないかもしれない。

誰かの中に残っているあの人やあの人やあの人は自分の中には残っていない。

本当は感じていないだけで残っているのかもしれないし、本当にその要素は残り香すらないのかもしれない。

 

あの人だけじゃなくて、あの場所、あの言葉、あの想いなどといろいろにある。

 

今のところ収穫の年(8の年)を掴めそうである。良い方へ。それは、その時の判断ってことでもある。集大成によって表出するものが。その表出によって起こることが収穫(実り)である。大切な年に起こることが、これまでのほとんどの結果である。ああ働いたから次のここがある。ああ考えていたから次のこの判断がある。人生はつながっている。あの時にしたあれがずっとどこかにつながっている。そして、そのあの時にしたあれが未来で幸せにつながる生き方をみんなしたいと思っている。でも、不幸につながることもある。ただ、それは、大きな人生という一単位のらグラデーションである。それでも、日陰が多いと感じるならば、本当は日向に出ていい時に、あえて日陰を好んでしまっているだけかもしれない。慣れてしまって、習慣になってしまって、日陰にいてしまっているだけかもしれない。人生の暗闇はトンネルというよりは、木陰という暗がりでしかない。木が太陽を覆い尽くすことができないように、私たちは木漏れ日を手がかりに、日向へとにじり出ることができる。

 

昨年も、多様な体験値を手に入れられてよかった。

  • 外に出ること
  • 通勤が1時間以上かかり、乗り換えが人間のベルトコンベアーのようで、人間でないと感じたこと
  • 孤立感を感じても11か月戦えると知れたこと
  • それでも、外にいる人たちは気にかけてくれていたこと

私の共感の裾野が広がったと思うんだ。

 

人は体験から学んでいる。

振り返って一年経過した後で気がつくこともある。20歳移行は、自分で進路を決めて生きているから、どの瞬間を思い出しても自分の至らなさを見つけられて、過去の自分は一生勉強の対象である。ただ、そうしない人もいる。もちろんいつかするのかもしれない。それで、怒りを買う人がいる。そして、その怒りの話を聞いて荷物を分けてもらう人がいる。ただ、それはわずかに伝染して、脳細胞がイライラでピリピリする。私も誰かに吐き出したくもなる。そううずく。まあ、みんないろいろ。そういう時もある。ってことにしておこう。

 

買った。

指示は1回

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  • 作者:楠木 宏
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「追い込む」指導

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