教師に向いている人っていうのは、いかなる事態が起ころうとも、すべて子どものためと思うと疲れも吹き飛んで頑張れる人なのではないか、と思う。
そう考えると、疲れ果ててしまって、なんなんだこれは……という言葉が浮かんでしまうような私は向いていないのかもとまた落ち込む。
できる限りで頑張る。
そういう意味で、大人っていうのは、最後まで元気な人のことを言うとすれば、私にはその資格がない。
いつも通りないないづくしで、でもそれなりにはやったはずと思いたい、これまたいつも通りの私です。
初めに課題づくりで苦労をしているので、だんだんと早くなったし、良くも悪くも口に出しているので、話が早いところも増えてきたような気がする。
「何が分からないか分からないから、何でも聞いてください」という言葉。
これって本当だろうか。怠慢ではないか。なんて思うが、自分も思考を停止して、相手の立場に立たないで、似たようなことを言っているんだろうな。
共感が強い人からメンタルをやられるから、共感しちゃいけないんだよ、という話を聞いて面白いなあと思った。
脱共感時代がくるのかもしれない。メタモルフォーゼ的なアップデートを人類は求められているのかもしれない。
お話しすれば、たちまち誰でも心を軽くすることができるんじゃないか、と思いながら、自分の時間を奪われるのが嫌で、人を避けていたりなんかもして、アホらしいな、と思う。
貫けよ、一貫性を持てよ、と。
誰も彼も、かゆいところには手が届かない。
分からないことを分かるように助けてくれる人はいない。
自分が働けているのか、不安だなあ。
まあ、やれるところまでは、やっていこう。
頑張ろう。
たとえば、母は自分の型があり、究極的にはそこからブレないようでいた。その正体はなかなか明らかにならないが、ある程度のお金である。大抵のことを「分からないけど」と濁して話が終わる。だから、私は分かる人になりたいと少し躍起になったかもしれない。ただ、もういろいろ解き放ちたいな。そうでない自分でいてもいいんだ。人の目を気にせず、自分が良いと思うことで、行動ができたらいいな。
そうだ。評価者の目じゃ子どもは育たない。
良し悪しで見ないこと。
そうできたら、子どもは育つような気がするなあ。文字に丸をする自分は、子どもたちにどんな願いをもっていたかな。
なんで、怯えているようにいるのだろうなあ。自信をもって、堂々としていないのかなあ。でも、それは、20歳のころからずっとだなあ。名前を大切にしたらいいと商店街の端っこのお茶屋さんに言われたなあ。ダメでも足で稼ぐしかなかったからなあ。そうやっていくしかないよなあ。自分らしく。自分のできないことをやろうとするから苦しいのだよなあ。すごい保守的だなあ。
ってか、それでよく受かったなあ。
誠実なところで受かったのかなあ。
自分の「仕事ができていない感覚」っていうのは、どこから来るんだろうか。
「またお願いします」とも笑顔で言われたじゃないか。なぜ、これまでの仕事を私は評価できないのか。
自分の要求が高すぎるのか。
真っ先に「楽しい授業をしてやれるのか」とか、そういうことを考えられる人間でいたいなあ。