読む本って大事だよなあ、なんて当たり前のことを先週考えていた。
特に、影響力が大きい頃の選書を大切だろうと思う。
でも、振り返ったところでどうしようもないか。
見方・考え方
自分がスポンジの時に、魅力を感じて惹かれてしまったものは、身体に染み込んでしまうのではないかと思う。
私がその頃インストールしてしまったのは、太田光の葛藤だった。
いくつかの本のいくつかの項に、「表現者としてメジャーにいかなければならない」という焦燥感が書かれているものがある。
私は、その感覚にとても共感して、自分が二流・三流(本当は一億万流だとして)であったり、亜流であることにひどく痛みを覚えた。
それでも、太田光は楽しく、惹きつけられた。それが、この先の読書への興味だとすると、悪い出会いではないと思うのだけれど、やはり、太田光の感覚は、特殊なものなのではないか、なんてことを思う。
一般化して、共感してはならないものだったのではないか、ということだ。
教師だもの
たとえば、売れなくても、メジャーに行かなくとも、目の前にクライアントはいて、そこに向かって適う必要はある。
そういう意味で、教師はいちいち自分をダメすぎるものとして、塞ぎ込む必要がない。芸があることは望ましいかもしれないけれど、そこで一喜一憂する必要はないんじゃないかってことだ。もっと、ただ、静かに存在していたっていいんじゃない?って話。
だってタレントじゃないもの。
教師だもの。
誰が言っているかを判断できない
そうなると表題について話したくなってくる。
つまり、タレントじゃないんだから、タレントの言葉に影響されないで、誰の言葉かもっと吟味してインプットした方がいいんじゃねーの?
って話だ。
要は、言葉は言葉でしかなく、簡単に一般化されてしまうということだ。哲学でそんなんザラに言われていることだけれど、そこを見誤ると自分の生活の中でなり得ないものと同化して苦しむってことが起こる。その罠に気をつけたいって話。でも、私は「誰が言ったかよりも、何を言ったか」を聞いてしまう。
「誰が言っているかよりも、何を言っているか」で判断しがちな癖があるので、私は余計そのミスリードにハマりやすいのだ。
自分なりに一人ひとりの価値や感覚を大切にしたいから付けてしまった癖なのだけれど、誰の声を聞くかは大切だ。
とはいえ、自分なりにチョイスして聞き入れている言葉が自分を作って生きているのだからそれでいいじゃないかっていう感じもする。
ここに来て、14年も前の入力を悔いる必要はない。でも、その感覚で物事を判断していることがあって、かつ、そのせいで生きづらいところもあったのかもしれないと振り返ると、もやもやする。
自分に何を入力するのか。
大切な時期に何を入力するのか。
入力された何で価値判断をしているのか。
おそらく、人は、「憧れるあの人の」見方・考え方をインストールするのだと思うのだけれど。
こういうことを考えると、やっぱりちゃんと、インプットして、脳みそをアップデートしなきゃだなあとも思う。
化石のような感覚を子どもたちに伝えていたら申し訳ないからだ。未来で生きづらい子どもたちを生まない一端では居たい。