いろいろあるんだけど。
あー、もう手はないな。とか
これは苦手な分野なので。とか
それは引き出しがございませんので。とか
思った昨晩なのだけれど、
「それでも、何か手はあるはずだ」
と思いたくなってしまう性分ではあって。
もっと、単純化して、事態を見直すことにしようと思った。
たとえば、不適切な行動をする理由は4つしかない。
不適切な行動をする理由
- その行動が不適切であることを知らないとき
- その行動が不適切な行動であることは知っているが、どうすれば適切な行動ができるのか知らないとき
- その行動が不適切であることは知っており、適切な行動も知っているが、適切な行動をしても望む結果が得られないと信じているとき
- 不適切な行動で関心や注目を得ているとき
単純に3と4だな、と思い直した。
じゃあ、どうするか。
望みは「関心」である。誰もが序盤で出会うような課題だけれど、最後まで足を掬うのも「関心」である。序盤にだけ姿を見せるラスボスと同じである。全く強敵である。そう考えてしまうと、人はどうすれば「関心」を与えられたと実感するのか謎であり、詰む。
ただ、それは、要するに「コストをかけろ」ということなのだと思う。つまり、「時間」をかけろということだと思う。なので、それとなくきっかけを作り、時間をかけることにした。
生憎、相手が素直だったので、朝に「体と心」のモニタリングをさせ、元気がないということだったので、自然に気にかけはじめ、さらに、レッドゾーン・グリーンゾーン・ブルーゾーンの話をして、レッドとブルーだと言うのでさらに近づき、構うことにした。休み時間はその子に注いだ。
くわしくは、こちら。
155日目:両取り(攻撃の手を止めるな) - かならず幸せになれるいきもの
実は、それだけの営業で、重大なことが軽くなりもする。それは、実際の姿としてもだし、自分の心の重さとしてもだ。
もう一つ、やはり「ブリーフセラピー」も役に立っている。挫けそうなとき、今回こそ無理だと思う時ほど、ブリーフセラピーが希望をくれる。
要は、失敗してもいいから「何か変えろ!」ということを強く後押ししてくれる。
世界中の問題に対応可能な3つの理念が無敵なのである。
- うまくいっているならそれを続ける
- うまくいっていないなら何でもいいから変える
- うまくいったならもう一度それをやる
この「2」に救われる。何かしら変えてみようと思える。実際の実際まで、何が事態を変えるか分からないのだ。あるコミュニケーションが、ある物の配置が、ほんの少し変わっただけで、事態を好転させる可能性がある。考えて何かをすれば、何かは変わるかもしれないのだ。もちろん、何も変わらないかもしれない。でも、そしたら、もう一度「2」である。また、何でもいいから変えることだ。そして、うまくいったなら、もう一度それをやること。
今日は、それでうまくいってしまった。ならば、もう一度、明日もそれでいってみることだ。変えようとしないこと。そうすることで、好転が生まれる可能性がある。
「ブリーフセラピー 」の素晴らしいのは、「もしかしたら」と思って前向きに行動できるところかもしれない。結局、今日、私の事態に応じる心意気が変わったことこそが、勝因なように思えてならない。