これは、自分のジャーナルなんだな。
「かならず幸せになれるいきもの」について、そうではない側からの証明を延々と記録しているのだ。それをやっているうちは、幸せになれないような気もするな。幸せに向かっている過程は幸せなんだろうか。そもそも。
「幸せとは別にたどり着くためのものではなく、いつかの瞬間のことである」
とか言っておきたい。流れていく日々の中で、「美しさやおいしさ、楽しさ、面白さ、尊さのようなものに気づくこと」、それを幸せとしてもいいだろう。そして、それを味わうには、同時に相反する体験もいるのだろうね。そうなると、すべては幸せでしかなく、人はどうしたって幸せになるしかない。生きている限りは。
なら、どうすれば、粘り強く、だらだらとでも生きながらえられるのか。それに必要なのが温室体験、アジールなのではないか、と思うところがある。そういう原体験。集団でよいも悪いもあって、生き抜いた自覚。楽しいは作れるし、嫌もやがて乗り越えられると知ること。自分は変わっているし、変わっていけると知ること。それには、誰かとのかかわり(やりとり)やつながり(いるだけでも)が必要だと感じること。この辺りが教室には詰まっているといいな。
そのために必要な手立てを考えないとな。たとえば、「セレブレイトする仕組み」、「企むことができるグルーピング」かな、うちで足りないのは。また考えよう。
というわけで、にもかかわらず。
今日も良かった。人は恩を返すというか、なんか勝手にそういう跳ね返りを感じている。
優しかったハピペンに優しさを返していく。
今日のイイネを言わせれば、気になるあの子三連発だった。悪くないの認め方だ。それぞれの頑張りを見ていく。変化に気づく。すごいことだと思う。
育てたいこと、かつ、育てられることを挙げたいなと最近思っている。
- 振り返る脳
- 良いところを見つける脳
は、育まれているように感じる。
他に
- リフレーム力も少しあるかな
- 失敗を許す(相手も自分も)
- 立ち直れることに注目する
本当はここに
- みんななら解決できる
- 話し合う楽しさ
- グループでなんかやる面白さ
みたいなものを感じさせたかったが、今年は難しいなあ。
総じて、居心地がよいクラスです。
今、私は。