今、通勤中に目を通している本。
「インクルーシブ」というブラックボックス的な言葉には、多様性が内包され、ブラックボックスしかりブラックホールのようだ。と改めて思う。
インクルーシブや共生社会について考えることは、それぞれのどんな「観」も「ま、インクルーシブ」ってことで飲み込んでいく。
現場の肌感覚では、まだ、過渡期だな、と思う。
とりあえず、「インクルーシブ教育」に関して言えば、私は「18歳のとき」に「どうなっているか、どこにいるか」を目指して、学習を積み重ねていくイメージをもっている。
その子の願いスタートでもいいし、通常発達と同じに行うにはでもいいし、まず居ることや関係構築を図るでもいい。
ただ、どうしたって、時間は過ぎていく。ということだけが課題である。
その課題に対して、できることを「合意」しながら練っていく。さまざまな人々の歴史をもとにカリキュラムを仕立てていく他ない。というイメージである。
その子はどこでどんな風に生きていくのか。それだけである。
目下、自分のインクルーシブは、さまざまな大人も包含するようなものでもありたいね。