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それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

『勉強の哲学』と『全体性と無限』

今日は風が強かったなー洗濯したなーな「ハピペン」です。

入りたくない迷宮。本を読んだ日。

『勉強の哲学』

『全体性と無限』は頭が疲れた。序論を一生懸命読みました。でも、抽象的な言葉たちを頭の中でつなぎあわせていくのがちょっと面白かった。もうずいぶん前に買っていた本。それを読もうと思ったきっかけをくれたのが『勉強の哲学 来たるべきバカのために』について書いているブログを見たからだった。

そのブログさん。

take-she12.hatenablog.com

恐らくこの本に書かれていることは、私の思っていることを明文化しているだろうな、と思った。買いたいけれど、今はタイミングではないと感じるので、ブログに書かれていたことを引用させてもらう。

勉強には終わりがないからこそ、勉強をいかに有限化し、いかにこだわりにって変わり続けることができる。「それこそが究極の享楽的快楽だ」なのかもしれないし、「享楽的快楽」があるからこそ、勉強ができる、なのかもしれない。それはどちらだろうな。どちらでもあるかもしれない。

「勉強の哲学 来たるべきバカのために」を読んだ - ツナワタリマイライフ

 恐らく、本の中で、「限りのある自己探索的な勉強は享楽的であり快楽を伴う」といったことが言及されているのだと思う。この感覚は深くて広大。

「限りある」ということは「目処」や「見通し」、自分をこんな風にしていこうという未来予想図があるということである。この安心感は生きていく上で重要である。

「享楽」ということは、「快」の刺激に素直に導かれてというイメージ。ただ、気を付けなければならないのは、人は自己を追及しようとする欲求がある。その欲求に従って、自分探し的な究極の絶対解を求めるような勉強はするなと書かれている。そういうジャンルの学問もあるのだろうけれど、それはゴールのないマラソンになってしまい自分を消耗し尽くす可能性がある。だから、「享楽」のイメージに従って、ここを探索しようかなと、自分の追究したいことのあたりをつけ、勉強を有限化することが大切になる。

ここで、私は、自己の探求は「無限」なのだと感じた。それを「有限化」するには、自分の外側に存在する要因が必要なのである。そして、自分だけで自分を追及する勉強は恐らく「享楽」や「快」から離れるのだと思う。(想像しただけでも、ちょっと苦痛になりそうな感じがする)。

その「自己の探求+他者性ないし外部性や環境因が、自分の「享楽」や「快」につながり得る」という考え方に強く刺激された。

そして、浮かんだのが『全体性と無限 (上) (岩波文庫)』だった。

『全体性と無限』

エマニュエル・レヴィナスという哲学者の本。

結構とんでもな本で、序論だけで頭が壊れた。でも、言いたいことはなんかめっちゃ好き。

「全体性」っていうのは、社会や政治などがもつ人々を包摂する理性的な価値観。

「無限」っていうのは、それを超越する観念のようなもの。

あえて「全体性」に「無限」がぶつけられているので、「無限」は「個」を指す部分もあるのかもしれない。

もう少し言い直すと
「全体性」は、「全体(仮)」からの「個」。たとえば「戦争って平和に必要だよ、だからあなたもみんなのためにがんばっ」みたいな感じだ。
「無限」は、「個」からの「全体」(もしくは「自分」からの「他者」)。たとえば「みんなに平和は訪れる。だとしたら、私たち一人ひとりは、何を受け入れて生きていけばいいんだろう」という感じ。

まず、前提にあるのは、理性的な痛みのようなものへの否定だ。とにかく平和のための戦争って嘘じゃない?辛くない?きつくない?嫌だよね?ってのがある。それを全力で哲学で批判しようとしたのがレヴィナス

私が読んでいて感じたのは、レヴィナスは、自分の外側に「無限」があるということを言いたいのだな、ということ。

「無限」っていうのは「自分の認識を越えたもの」「辿り着けないもの」「他者との関係において存在してしまうもの」「決して分かりえない出来事の意味」だと解釈した。

「無限なものの観念」という言葉も出てくる。こちらは「自分が希求する理想やよりよさ」のようなものと捉えた。

自分なりの解釈で説明すると、自分とそれ以外とのかかわりにおいては、決して分かりえない部分が存在する。その分からなさとは「無限」だということである。どう分かろうとしても人は自分の主観というフィルターを通して他者を理解するため、他者を分かろうとすることは「無限」を生起させる。しかし、人は相手を受け入れようとする。そこに分からないはずの他者を分かろうとする「無限」を越えようとする観念が消息(登場)する。そうして他者を受け入れられたときに、「無限なものの観念」が発生していて、それは理性の次元よりも高いレベルのものであるという話。

そして、他者を受け入れるという次元には、視覚的には分かりようのないヴィジョンが含まれている。「無限なものの観念」的な、他者を受け入れようとする高い次元の中で出来事は、この世界を規定し終末論につながる出来事であり得るといった高尚さがある。この出来事の解釈も「無限さ」があるものだと考えられる。

この「無限」は非常に温かいもので、要は、目の前の他者は「無限」である。だから、殺めてはならない。生きているべきかはさておき、無限として存在しているのだから、存在を消すことだけは否定する必要がある、というような解釈ができる。

出来事の解釈の「無限さ」、他者の存在という「無限さ」を受け入れることだけが、本質的な平和につながるのではないか、ということをレヴィナスは言っているのだと思う。

この考え方は、私の好きな考え方である。「どの人間も生きていていい」根拠になり得る話だ。ただ、やっぱり形而上学の域を出ないようなので、結局好きずきっていう感じになってしまうので、ちょっと弱い。

そして、これこそが「勉強の有限化」の話につながるところだと思う。

今どきの勉強って?

価値観の多様化、社会の変化が加速度を増していること、未来が先行き不透明なこと、これらの背景に私は無限を感じた。

今や、社会が有限化されていないのだ。産業改革の時期、高度経済成長の時期。生産者になっていくというヴィジョンがあって、そこにはある程度の目処があったり、どのジャンルを学ぶといいということがあったり、社会は有限化されていた。昔は、社会に合わせて自分を有限化することがやりやすかったのだと思う。

しかし、社会は予測不可能で無限化した。「世界に一つだけの花」が流行って、社会に応じた自己を見いだすよりも、もともと特別なオンリー1な自分を探究するようになった。レヴィナスが言及しているかしらないけれど、自分もまた「無限」だったのだ。

もしかすると、実は「無限なものの観念」は「有限」ということかもしれない。自分にとって他者や出来事は「無限」であるが、それらが「自分に受け入れられたとき」「自分用に加工されたとき」、無限だったものは一部が「有限」になっているのだ。

それを基にすることで、「自分の無限化」を食い止めることができる。ただ、何度も言うように自分の外は「無限」なので取り入れようとし続ければ、「有限」を「無限」に仕入れる形になり、結果的に「自己は無限に陥る」。

そこで大切になるのが「快」だった。これは、幸福度の4因子にもつながる話で、興味深い。

自分が解き明かしたいことを、自分の脳を通して吟味し、自分にヒットしたものを追究しようとする。その取捨選択力が、これからの勉強に必要なことなのだと思う。

自分を見つめて、「快」を知り、それに合った勉強をしようとするということだ。これは、セカンドチャンスがないと言われる日本では、自己責任論に行きつきそうで嫌だなあという感じがするのだけれど、でも、これ以上に社会に応じた自分を生きるロジックはないような気がする。

自分の探究に埋没するでもなく、それを有限化し、社会にとっての有意味化することで、自分の無限と外の世界の無限を飼いならし、幸福に生きていくことができるのだと思う。

そして、その幸福、つまり「他者が抹殺されるのではなくお互いが受け入れられ有限化される幸福」こそ「存在の本来的意味」であって、レヴィナスが求めた「平和に向かうための出来事」なのではないか、と思う。

この「快」に基づく自己の有限化は、アドラーで言う幼い頃からのライフスタイル。白ネコがいうところの「一貫した行動動機」。これらが指すことも、今回話したことにつながるし、やっぱりそこに引っかかりがあって、納得したい自分がいた。

同時に、有意味化するための「言葉」も重要なはずで、どうすれば自分を殺し過ぎず受け入れてもらえるかの変数も気になるところ。ありのままでは、マニアックすぎて、無意味化し、無限に陥ると思うのだ。

私が解き明かしたいのは、これらに関係する「他人を大切にすることが自分を大切にする仕組み」だ。自分だけを生かそうとするから、生き辛いっていう視点を誰もがもてるといいな、と思うのだけれど。

「暴力」はどこから生まれるのか

今日は、早く帰ってきた「ハピペン」です。無理に無理しなくてもいいかな、と。なんとなく周囲へのパフォーマンスのために、いようとしている自分がいる気がして、さっと帰ってきてしまった。そもそも残るほど偉いって価値観は気持ち悪い、そこを気にしている自分はもっともっとキモい。

 

4月が終わる。この学校にも慣れただろうか。今日、初めて職員室に入ったときの違和感を思い出した。「ここ天井低くね?」っていう。

ただ、慣れるもので、その圧迫感は感じなくなった。狭い職員室も、肌身に合うようになってきた気がする。このパーソナルスペースの中が楽しいかは、信頼関係によるのだろうな、と視点を再構成した。

 

けど、慣れない違和感もある。それは、この学校では、大人が子どもをよく怒るってところだ。叱ってんのかもしれないけれど、子どもは「怒る」と「叱る」を区別しているのだろうか。これって主観の話なんだっけ?それとも、受け手の感覚で決まるものなの?と強く思う。

「怒る」と「叱る」

そもそも私は「叱る」も「怒る」もどっちでもいいと思っている。そんなの主観だと思うからだ。大体この文脈にあるのは、「怒る」に対する悲観的な目線でしかない。(怒るための言い訳を「叱る」でこしらえようとしてないか?)

そして、私は誰かが怒ることも否定しない人間である。以前、些細なことで怒る子、激高する子に「怒らない」という言葉掛けを何度もしているときがあった。これは、つい口をついて出てしまいがちな言葉だ。

「そんなことで怒らないよ」といった言葉掛けって日常的にあるんじゃないだろうか。

けれど、ある研修で『怒ろう』という本を紹介してもらって、そのときの話で考えは一転した。

そのとき教わったのが「怒ってもいい。ただし怒り方を変えろ。」というものだった。

「怒る」を否定しない

「怒る」を否定するってことは、「怒り」という感情を否定するということだ。子どもの「怒り」を否定することは、大きく言えば人権侵害かもしれない。感情を抑圧して子どもが育つと考えるなら、それは異常な大人が強制して変わった姿を自分の成果にしているだけだろう。

「怒らない」という指導は、実は、事実と教師自身が持つ感覚からくる飛躍した指導言で、本来ならば「怒り方」を変えてほしいのである。

ある発達障害の子には、これが「スッ」と入った。「ずっと怒らないのは無理だと感じていたけれど、全くできない自分を変だと思うしかなかった」というようなことを言っていた。人間は「怒らない」ということは無理なのだと思う。その子の言うように、ある感情を捨てろってのは全く無茶な話だ。

「怒ってもいい。怒り方を変えろ。」というメッセージは、腑に落ちたようで、その子も自分を俯瞰することができて、「怒らない」という戦いから「どうして暴力をふるいたくなってしまうのか」という戦いに移行していった。そうして視点が変わると、殴らないで怒る方法を考えればいいだけになり、その子は本を読む、その場から離れるという手立てを自分で取れるようになった。

「暴力」はどこから生まれるのか

さて、本題の「『暴力』はどこから生まれるのか」。

今日、6年と初めて給食を食べた。支援の子がいる班に座って一緒に過ごしている中で、班の子が「ちゃんとAさん怒らないと」と言った。

私は「なぜ?」と思った。

まあ「やらせるため」ならいいのだけれど、私はあまり「やらせる」ために「怒る」ことはしないタイプなので、ここがこの学校での一番の違和感だなあと思った。

「やらせる」ことが目的の「怒る」は、短絡的だなあと思う。私は、自分からやるようになるための「指導」が好きだ。

「怒ってやらせる」というのは、結果の即席性を求める人が多いってことなのかもしれない。便利さを追求した高度経済成長時代、コンビニエンス化、インスタント化のちょっと古い価値観なような気がする。(かなり適当に言っているだけなので気にしないでほしい)

「怒る」で「やらせる」のあぶないところは、まさに行きつく先が「暴力」なところで、もしある「怒り方」で相手が動かなかったときには「怒り方」を過激にしていく以外に手がない。機転が利いて自分のやり方の過ちに気づければいいけど。たとえば、「やらせる指導」の真反対的に位置するのが、「コーチング」や「マネジメント」、アドラーでいうところの「勇気づけ」なのだろうと思う。これらの指導法が意欲や自主性を引き出し、行動を一般化させることがつながるのだと思う。

総じて「暴力」が生まれる理由は「自分が結果を短絡的に見たい」ってことがある。

また、ケースにもよるけれど「手段の目的化」ということもあると思う。たとえば「相手にあることをしてほしいという状態の改善」するための暴力から、「相手にあることをしてほしいのにあることをしてもらえないという葛藤状態から来るストレス(怒り)を発散」するための暴力もあるだろう。

後者の暴力はもう主観で自分のためのものでしかない。ある人にあることをしてほしかったのに、もういいやってある人を抹殺してしまうというような考え。支離滅裂な自己の持ち主で生きづらいだろうなと思う。暴力をなくすために、論理の力も育む必要があるのかもしれない。

もし、抹殺した後に、やろうとしていたことがその人と二人でなければできないことだったら、どうするのだろうか。取り返しがつかない。後悔するってだけなのだろうけれど……。

超話が飛躍するが、私は、これが、地球上で全員が生きていていい理由だと考えている。地球上がある人数でなければ、地球上の全員は幸せになれない。だとしたら、誰かによって命が断たれることは合理的ではないだろう、と。

やさしさ>ただしさ>つよさ

やさしさを第一にしてはどうだろうか?と子どもに話すことがある。極端だなって言われると返す言葉がないのだけれど、私は「つよさ」より「ただしさ」。「ただしさ」より「やさしさ」が必要な時代なのではないか、と考えている。

今日、休み時間に使った物を片付けない子を叩いた子がいた。ただ、その子がなぜ片付けないかというと、次々に目移りする特性だからでしかない。そして、注意をしてくれたのだが、その注意が入らないのは、否定の感情が先行していて、その角度の情報は入りにくいからだ。端から見ていると、すべて注意する側のせいで、環境因だと感じる。その関心の結末に暴力があるなら、ホント関与してくれるな、と思った。(私のいうことを聞かないなら、存在として許しません!なんて、もうサイコサスペンスじゃないですか?)

もし、人とかかわる、関心をもつという思いやりを発揮するなら、最後まで発揮しろ、と思う。

結末に暴力がある背景には、「やさしさ」より「ただしさ」。「ただしさ」より「つよさ」という、相手を動かすための価値観があるように感じた。相手を動かすためというならまだマシな言い方で、実際は自分が思う通りの世界を演出するための価値観でしかない。

もし、本当に片付けてほしいのなら、片付ける力を付けてほしいのなら、私たちがやるべきことは、「注意」「怒ること」ではない。「指導」と「励まし」だ。

この辺は、育てられ方で如実に出る。本当にその子を思っている子、たとえば励まされて育てられた子は、周りの子も励まして行動してもらおうとする。それは別に大人みたいに卑しい裏があるのではなくて純粋な関わりとしてそうなのだ。

しかし、いつも否定されて育った子は、自分が年上になったり、出来るようになったり、優位に立ったときに、同じように相手を否定して動かそうとする。

この「やってもらおう」と「やらせよう」という角度・思いの違いだけでも受け手の感じ方は随分違う。

まあ言いたいのは、結局、本を正せば、「暴力」がどこから生まれるかと言えば「大人の間違った価値観による『指導』から」ってことが言いたい。

「ふーん。それで、やさしさだらけにして甘えた子が育ったらどうするの?」という疑問が湧くだろう。私は別に世界が甘ったるくたっていいと思っているのだけど、それはまた別のところで話そう。少しさわりを言えば、私たちは、共同体であること。自分をよりよく成長させるという価値基準。みんなにとってより良い自分(みんなには自分も含む)を選択する力を身につけさせる。といったことに大人が価値をもてていれば、甘えに対処することができるだろうと考える。

まああれこれを置いておいても、とにかく人間ってことを忘れないでほしいと願う。

手伝いがなくてもできるときもあれば、手伝いがほしいときもある。その臨機応変さもなく、「自分のことは自分で」とパターン化されるところが気にくわない。もっといろんなときがあっていいんだ人間は。

「悪」を根絶する気でいるんだろうけど、目の前にいるのはただの人だ。

「校内研」が面白かった!?

夜はまだ冷えるなーと思っている「ハピペン」です。

校内研は教科統一?各々選ぶ?

今日は校内研の全体会がありました。

授業者がいて、授業を見てみんなであーだこーだする時間です。

下手すると粛々と建前で過ぎることもある全体会ではあると思います。

しかし、本校の校内研は学びが自分に向く校内研だったので面白かったです。

学校全体で「指導の系統を明らかにしていこう」という訳ではないので、個の学びに返していくことが可能なのだと思います。

これは、善し悪しがあるだろうけど、たとえば、教科も決まっていないからこそ、それぞれの個から木が伸びていき、そこに出来た果実を周りにいる同僚も受け取っていくような印象を受けました。

国語をやった人からは、そこからつながる国語を自分の学年でもイメージすることにつながります。全校で国語を研究していなくてもそれは可能なのです。

 

振り返り方

4人程度でグループをつくって振り返りをしました。

まず「3つの視点」で授業を振り返りました。それぞれの「視点」における「キーワード」を書いて、その理由と根拠を記入する。私は「◯◯と感じたから」という感覚しか書けなかったが。これが5分くらい。

次に、グループの人と「シェア」したいものを一つ選んで発表する。聞きながらどんなこと話しているかメモし、その後に発表されたことについて感じたことや考えたことなどを記入する。そして、その気づきや考えを発表者に返す。これをグループの人数分繰り返す。

そして、全員の発表が終わったら、キーワードをもとに画用紙等に一枚にまとめる。(ここが、提案授業に対してではなく、そこでの学びをシェアするための「まとめ」なところが面白い。結果的に「授業」にも返るのだと思うし。)

そして、それを壁に掲示してみんなで見て回り、全体にシェアして振り返りは終わる。

 

アドバイザーさんの講義

アドバイザーさんの講義が、教員あるある的な虚をつかれるような話で楽しかった。

まず「異動してきた人、学校教育目標言えますか?」からはじまった。カリキュラムマネジメントが叫ばれる今、私は少し意識しているつもりだったが、まさにつもりにすぎず、いざ聞かれると出てこなかった。さらに、「学習指導要領の学年の教科の目標と内容って意識してますか?」とも言われた。言葉を失うような……。

そしてこれからの授業づくりは「子どもが主役の授業づくり」ということも繰り返し話しているらしい。はっきりそう言ってもらえる後ろ盾があるのは、やりやすいような気がした。また「聴く話すがしっかりできることは必ず学ぶ力につながる」ということも話していた。

あと、「社会に開かれた学校」の開き方の具体も話していた。この内容も私の好きな感覚だった。教員の目標を外から来た人が見やすいところに貼り出せと言っていました。無記名でいいから、こういうことを頑張ろうとしてる教員がいる学校ってどうですか?って提案をして開いていくということだった。素晴らしいと思った。

 

この中の何を実現していこうとなって、学校がどう「よりよく」なっていくのか、自分にはまだ分からないのだけれども、ちょっとウキウキ、楽しみが増えたなあ、と思った。

 

あと、今日は例の批判を受けることにつながる子の頑張りを介助員さんが喜ばれていた。

やっぱり、育ってる子どもを信じようって、頑張ろうって思えたかな。

「批判」ってそれやめない?

あーうざったいって気分な「ハピペン」です。

今日はあえてね、あえて口悪く書いちゃうから。

 

必要なことはね、いつだって他人をリスペクトだよ。

 

「去年はこれで出来てたのに」

「◯◯くんはもっとできると思うよ」

 

「あーはいはい」

それ一番いらないからね。

言い方のニュアンスで何を伝えたいか、サポートしようとしてるのか、批判したいのかよく分かるわ。

 

そして、その自慢気に示すワンアクションで指示が通るのは信頼関係が出来てるからだからね、それは行動を選んでるんじゃなくて、ただの反射だろう。

 

同じ動作して同じように動くわけないじゃん。

本人だってその内実は分かってねーよ!そしたら、出来るじゃんいつも!

だったら、その子を得意なあんたをいちいち呼んでやろうか?って話だわ。

 

その行動が一般化してないんだから、指導が注意にすぎなくて、指導じゃなかった証拠じゃないか?

 

そうやって、同僚を批難した圧力は、下手すれば、子どもに向くからね。

たとえば、静かにさせられないことを批難されれば、担任は強行策に出るしかなくなるかもしれないんだよね。「きつく怒鳴ればいいのか?」って。あんたらいつも怒鳴ってるけどさあ。

そのアドバイスが「もっと普通級みたいにかかわっていいと思うよ」って、「きつく怒鳴れって?」っていうか、だったらなんでそもそもこっちにいんのよ?と。

それに、「支援」に入ったからってみるみる良くなるってわけじゃないからね。そんな支援が特効薬になってたら誰でも支援に入るわ!

まあ、少なくとも、交流級の集団の中で怒鳴られる回数は減るから支援級の方がマシってのがあるだろうけどな!

 

「普通級的な指示」と「支援級的な指示」があるって話の時点でなんか変な気もするし。別にどこ行ったって子どもに伝わるように言うだけだわ!

 

ただ、私のこれすら「批判」なんだよね。その子には「普通級風」にかかわった方が力が付くのかもしれない。

 

けれど、この話も、その子が去年育っていて、「自分で自分から」出来るようになっていたら出てこない話なんだけどね。

 

でも、やっぱり私の指導観、指導法が悪いんだろうか?じゃあなぜ、その子は、私の前で正しい振る舞いができるのか。

 

これは、紛れもなく「行動が人に依拠している」からで、ある人の主観、たとえば「うるさい」に対して静かにする力があるだけってことだ。

これを「TPO」によって「自分を選べるようにすること」、「自分で自分から出来るようにする」指導に取り組んでいるだけなのだけれど……周りの人はすぐ黙らせられないと嫌みたい。

よそ者が、子どもを見ていて、良い姿だけを表出できないのが不安で仕方ない、と。それはなんのための不安なのだろう?その子のためかな?本当に?

 

あと、「去年は、普通級の子と同じように扱っていましたから!」

これもなんなのかよく分からない。だからなんだよ、って。合理的配慮的に、発達障害者支援法的にいいのか、その明言は。

 

新人の失敗を指摘するのって楽しいんだろうかね。

要は、お互いイーブンじゃん?

自分の指導こそ正しい根拠は自分の気持ち良さだよね?

 

今後に乞うご期待だね。

出来るようになるっていうのは大切なことだけど

昨日今日と寒くない!?と思っている「ハピペン」です。町には春めいた格好の人だらけだけど、みんな寒くないの???

 自分を遡ることが続く。自分は「何者」なのかよく分からない。昨年の夏以降、映画「何者」の軽快なCMばかり浮かぶ。最後にキレッキレにタイトル「何者」が言われるCM。

 それは「ここではないどこかへ」感があるからなのだろうか?

 そうして自分を遡る中で思うのは「自分の出来事はありがちで重くはないだろう」ということだ。

 ただ、たとえば父に対して「一緒にやりたかった」という思いが浮かぶ。

「一緒に」は子どもも好きな手立てだ。

 私は、子どもは「出来るようになればいい」と思っているので「無理矢理一人でやらせる」という手立ては取らないことが多い。

子どもは「やれる!」と思えば勝手に一人でやる。その大人の予測ミスというか、勝手な都合での「一人でやれ」が残す傷が気になるのだろうなあ。こういう時に「いないものとして扱われた感覚」が含まれるニュアンスって分かるだろうか。

たとえば、一人でやりたくないのに一人でやって出来たことを認められても子どもは嬉しくない。そもそも褒められるためにやってんじゃないしね。(一人でやれるような支援がある場合はまたちょっと子どもが抱く感覚は変わると思う。あと、一人でやることが価値づいていれば違うだろうけど。)

そして、子どもは「一人で」出来るようになりたいって最初から思うわけじゃないし、それは適切な依存が済めば自然と起こるものだと思っている。

私は、出来るようになったけど残る傷があるってことを蔑ろにしないようにしたい。

発達障害系の子たちも、たとえば、18歳までにアスペルガーADHDの子の社会性は、適切な療育を、受けていればある程度の水準までいく可能性が高いと「杉山登志郎」の本で見た。

それよりかは、その成長過程で受けた指導による自尊感情の低下の二次障害の方がなかなか覆せず、立ち直れない人が少なくないとあった。

散々「とある子ども」を否定して育ててその子が出来るようになって能力を残したとしても、その指導法が傷も残し、そもそもの生きようとする気持ちを奪うことがある。

あの人に否定されたことは、この人に肯定されてもずっと残るってことをどうすれば拭えるのか。

なんとなく「どうやって直すのかわからないものを壊し続けるのはもうやめてください」という伝説のスピーチが浮かんだ帰り道。

誰も傷つかないで誰かを守る方法があるってことを教師は示したいね。

慣れ親しんだ社会と動物の間で

人は休むと回復するのはどうしてだろう?と思った「ハピペン」です。エネルギーがなかったのに回復するってなんか矛盾してませんか?自分のハード面についても全然知らなくても生きられるDNAに感謝ってとこだろうか。

 

そんなことを思うのは、今日は動物園に遠足だったからかもしれない。

 

展示のプールを下から見上げる。窓の右上でずっとクルクル回っているオットセイ。

「何がしたいんだコイツは……。」と思った。

ただひたすらに回転している。

たぶん「遊び」なんだと思う。

 

本当は人も別に生産性なんて気にせず、気持ち良さや心地よさに身を委ねて「やりたいことをやっていいはず」。

そんなことを思った。

 

私たちは「世間の目」みたいなものがあるからしていない、本当はしたいことがあるのかもしれない。

回りたいとか回りたいのかもしれない。

確かに、動物園の反対に、動物たちだけが自分を見ていても、なんの「恥」とか「世間」とかは感じないだろう。

食い殺されない範囲で自由な挙動で生きると思う。

 

人は「生産物」が評価される喜びがあるから、社会に参加しているのだろうか。(純粋にその評価が得られないと食べていけないってのもあるだろうけど。)

でも、そうすると、なんとなく社会ってつまらなくないかなあ、って思う。

良い評価が得られなくても、自分らしく参加できる社会だったらどうだろう?リラックスできて、私はなんとなく笑顔が増えるような気がする。

 

モラトリアム期間って言われるような、時間に制限があるところが苦しさかもしれない。脳科学的に若い脳で支えなければならない社会があるから、現代の教育制度なのかもしれないけれど。(そんなことないか、社会人の学び、生涯学習って話も散々されているものね。)

もしくは、セカンドチャンスっていうような、挑戦への制限があるところが問題なのかもしれない?

もし時間があったら、生産的でない時間を認められていたら。私はもう少し、虫や魚や動物を見たのかもしれないって思ったんだ。

実際、プライオリティはいつ如何なる時も発生するから、それよりも楽しい「子ども」に時間がいってしまうだけなのかもしれないのだけどね。

モフモフな鳥や、等身大のペンギンの像にかなりトキめいた日。

 

良さを見つめる

一年生を迎える会で「めあてを言うこと」「遊びがあること」が、とても良いと思った「ハピペン」です。

 

今年度「ハピペン」は市をまたいでの異動でした。心理的に多少の抵抗はあるものの、その抵抗を越えて「多様な価値観を受け入れられる人になりたい」という思いがあったので、反対にチャンスと思って他市に飛び込みました。

 

結果的に、今の所思うのは「うちはすごい!」っていうのが一番あぶないなあ、ってことです。

 

教育にベストも正解もないのだろうなと強く感じるのです。どちらかというとただ「思い」と「違い」があるだけという感じがします。

 

自分の中にある価値観だけにのまれないために必要なことは、目の前の事象の「良さを見つめる」ことです。

 

教育で言えば「良さのない教育」はないですし、「良さを見ようとすれば」自分の許容範囲はどんどん広がります。(当然法に触れちゃダメに決まっていますし、子どもの実態が合わさってくると「荒れ」もあるので、単純になんでもよいというわけではもちろんないですが)

 

最初に書いたように「良さを見出そうとすれば良さに気づくこと」ができます。ただし心理的な抵抗があると難しくなるかもしれません。

恐らくその正体は、前任校のやり方への慣れだったり、同僚の良さだったり、一言で言うと「愛着」かなと思いました。

 

ただ、大人が学校に対してもつ「愛着」は、実際的な教育の善し悪しと全く関係ないですよね。

 

過ごす中で「あれ?」って思うことは、当然違いとしてはあるのですが、結局「どれが正しい」っていうのは本当にないのだな、と肌で感じています。「思い」や「違い」があるだけなのです。

 

そうすると、ますます「誰も何も否定する必要はない」のだなと思えました。

 

ただ、みんなそこに在って、最善に近づこうと進んでいる。

 

いろいろな教育への態度を知り、良さを見つめる。すると、自分の教育も「あり」なのだと思えたり、自分にしかない良さがあるのだと感じたりする。

 

場所が変わっても自分の在り方が不変なところと、教育が「何のために」を大切にしてよりよく進もうと展開されている普遍を感じた日でした。

 

あの怒鳴る先生にも内実はある。その良さや背景を考えつつよりよさを目指せるといいな、と。(怒鳴るよさがあるかは、知らんけど)

 

外の世界にいくことで、異質を認めたときに己の異質さも認められるといった、承認欲求にのまれない仕組みを体験できたってことかもしれない。