読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

たすくま2日目(時間っていうのは稼ぐものなんだ!)

たすくま二日目の「ハピペン」です。いろいろな流れがあって、今日は4時前に起きられました。時間を得られる楽しさも実感し、「タスク管理」によって時間を意識できるようになったのって楽しい!!

昨日は、家に帰って来て、「10分間休憩」というタスクと思ったら、8時台に寝てしまった。

 

しかし、家に帰って来てからやろうとしていたことが、3つあった。

たとえば、そういうとき寝落ちしてしまったら、「昨日、何やろうとしてたんだっけ?」って朝からはじまるわけですよね、ふつー。

でも、きっちり、3つ、それも「赤い文字」でタスクが残っているんですねー。それだけでストレスがないし、昨日の自分とつながっている安心感。記憶が薄れない喜びを感じてしまいました。(ちょっとキモいね……。)

 

ただ、時間管理って、思うようにいかないストレスよりも、時間を把握できている安心感や自信の方が大きいです。

 

今日感じたメリットを書く。

メリット

時間を「ヨーイドン!」的に使える

たすくまで、スタートを押すことで、少しでも早くやろうという気持ちになります。着替えとか、支度とか、いつもやることってだらだらやりがちなのですが、「ヨーイドン!」感があって、ちょっと素早く行動できます。

時間をどうすれば増やせるかを考えられる

時間が可視化されたことによって、上の「ヨーイドン!」もそうなのですが、時間がどうすれば増えるか、作戦を考える感覚が生まれました。

自分を信用して、自信が増す

これは、全く予期してなかった恩恵。昨日(たすくま1日目 - それでも幸せな人はいるから)「脳は信用ない」っていうような話をしたのですが、その信用のなさは、無意識的な習慣化した自分への不信であって、自信を損ねていたかな、と思いました。思い付きやアドリブ、そのときそのときの選択ではなく、冷静な脳で判断した基準が、たすくまという外部にあることは、信用できる過去の自分の基準が常にあるような感覚で、自信が沸いてくる感じがあります。

時間に縛られるのではなく、時間を縛り返せる

時間を管理することは、時間に縛られるようなイメージをもっていました。でもこれはイメージに過ぎず、実際は、それこそ、時間というものは「枠」があります。枠があるものを、枠に縛られたくないと、その都度の選択で生きようとすることは、「枠が『ある』のに『ない』と思い込む」というような不自由を生んでいます。時間の枠を可視化することで、時間の中を自由に泳ぐことができます。どれくらい泳げるかが分かるから、その時間は全力で泳ぐことができるのです。縛られていた時間を飼いならし、時間を縛り返すような感覚があります。
逆によく今までこんなにもアドリブで生きていたなあ、と思いました。「予定があるから、予定外を許容できる」ということにも気づきました。

困って解決したこと

明日のタスクが作成できない

明日のタスク作成のボタンを押してもタスクが作成できないということがありました。これは、たすくまを再起動するだけで解決しました。

 

やはり、スマホを見る時間がとにかく増えてしまったのですが、たすくまの価値はあると感じる2日目でした。

よりよい生きやすさに向かって人は、進化していくのだなと思った日。

たすくま1日目

脳って信用なくね?って思った「ハピペン」です。もう本当に信用ないです。あっちこっち行き過ぎです。ただそれも「自分」という媒体の過去のすべてを通した上での心地よい判断でもあるのだろうなあ、と思うと面白い。
これは、自分の心地よさと社会の求めているものが合っていない根本原因な気もしてきた。「気持ちよさ=向社会」だと生きやすいわけだ。

そんなわけで、メタ認知をさせてもらいながら、いろいろな刺激をもらっています。そのいろいろな刺激を脳が勝手に組み合わせて、何かしらが浮かんでいるのだと思います。

 

一昨日、「マインドフルネス 朝 ルーティン」で検索して出た記事に影響を受けて、学びたいことに入っていなかった「タスク管理」に辿りついてしまった。(マインドフルネスはどこいった!?)

inclusive.hatenablog.jp

 

未来を見通すために、未来を見通すときには出てこなかった「タスク管理」に出会うという謎の必然に深いところがわくわくしたので、実行。

 

たすくまの入門書「『たすくま「超」入門』」も昨日の通勤から読みはじめて、「たすくま導入」を決意。

 

たすくまを1日使ってみて感じた「デメリット」「メリット」「気になっていること」の順に書いていこう!

デメリット

  • スマホを見る時間がどう考えても増える
  • 使い方が複雑で使えるようになるまでに時間を搾取される。(ボタンの押し方と操作の仕方でできることが多すぎて覚えられない)
  • 本当に必要か分からない
  • 高い?

今、浮かぶのはこれくらいです。

時間を生み出すために、新しい学びが必要で時間を奪われるというところになんとなくストレスがあるのですが、これまで、いちいち脳の中から選択肢を浮かべて判断していたものが、少しでも可視化されて道草を食べなくて済む実感が一日使っただけでもちょっとありました。

メリット

  • 自分がどんなことにどれくらい時間を使っているかを可視化できる
  • その日やろうとしていたけどやれなかったことが分かる
  • 新しいことは楽しい
  • ルーティンを頭の中で思い出さないでこなしていける
  • 使いこなせば「焦る」ってことが減るように感じる

どこかのブログ記事でも書かれていたのですが、たすくまがなくても、それなりに生活は全然できると思います。なんの不自由もなく、けれど、明らかに、ある方が、脳の熱量が少なく済むように感じる。

これが、脳科学的に良いのか悪いのは分かりません。頭の中でタスクを処理した方が複雑なつながりが生まれて結果的には、年単位で良い作用があるのだよ、と言われてしまったらもうそれを知ったときに、電子機器に委託されたタスクによってロボット化した自分を資源ごみに出すしかありません。

それでも資源になるならいいか、という覚悟で「たすくま」を使う。実際はそんな不安も懸念も一切ないけどね。

ネットの時間を記録するだけでも長っ!って驚く。

そして、今気づいてしまったのだが、「たすくま」の記事には、メリットばかりが書かれすぎていることが気になる人がいると思う。それを懸念している人は少なからずいる。「私がたすくまから……云々」って記事もよくある。
ただ、良いことばかり書いてしまうのは……「3600円で購入して必死だからかもしれない!(笑)」これについては、今後も使っていって本当に価値があるのか確かめていこうと思う。

気になっていること

まだデメリット化はしていないけれど、一日目の時点で気になることが出て来た。

  • タスクの文字色などを変えられない
    たすくまはタスクごとにメモが取れる。これは素晴らしいこと。なのだけれど、どのタスクにどんなメモをしたかの分類をどんな風にしたらいいのかが、分からない。evernoteと連携したりして、メモも管理するってパターンなのかもしれなけれども。
  • リピートの管理
    たすくまでは日常的なタスクをリピートすることができる。これは月や週単位でもリピートできるのだけれど、月1のタスクが次にいつやるのかをどうやって確認するのかが分からない。これは、次の項目にもかかわってくること。
  • いずれやりたいことが記録しづらい
    今日と明日のタスク管理にしては、一人勝ちしているアプリなんじゃないかと思う。けれども、「そのうち」とか「いずれ」とか「いつか」、あと「重要度」でタスクを管理することが難しいのではないか、と思っている。
    月1回のタスクですら、ワンタッチで確認しにくい仕様かもしれない。
    ちょっと、まだ使い方が分かっていないだけの可能性もあるが、こちらの記事でもそういった懸念が示されているように思う。

    WorkflowyからiPhoneを使ってTodoist・たすくまにタスク転記できるブックマークレットが来たよ! | Luminous Tale.

    TaskChute Cloudを2ヶ月近く使って感じた、たすくまよりも気に入ったポイント | Luminous Tale.

「デメリット」や「気になったこと」を補完できるアプリを使うか、網羅しているアプリへ移るかが、「たすくま」の満足度につながるのだと思う。
ただ、そのトータルのマイナスに触れないのが、完成度の高い出来ることの多いアプリで、レビューが悪くないものが多い本当の理由なのだと思う。

実際は、TaskChute Cloud の方がいいのかもしれない。ただ、evernoteとの連携の記事を見て「たすくま」がいいと思ったんだよなあ……。

マインドフルネスについて(1)

心を充足したい「ハピペン」です。

 

先日のメタ認知の中で、マインドフルネスのことがとても気になりました。タイトルの(1)は、これからも書いていきたいという願いからで、連続して投稿するわけではありません。

 

21世紀の学習者と教育の4つの次元: 知識,スキル,人間性,そしてメタ学習」この本の中で取り上げられている項目の中でもマインドフルネスが一番心に響きました。

まだ全然読み切れていないのですが、この本にも「学習する学校――子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する」書かれていたと思います。

 

それくらい、自分の中でもホットなマインドフルネスについて、メタ認知で参加している会(以下、DAFL)でも学ばせていただいています。

 

21世紀の学習者と教育の4つの次元: 知識,スキル,人間性,そしてメタ学習
こちらでは、こんな風に書かれています。

子どものストレスの軽減、集中力の増進、毎日の生活の質の向上に役立つ実践として採用されるようになっている。


マインドフルネスは「一刻一刻、展開していく体験に対して、今この瞬間に、判断や評価をしないで、意図的に注意を向けることにより生じる気づき」と定義できる。

瞑想、食事、歩く、運転など日常的な活動を通じて行うことができる。


エレン・ランガー
苦労なくして得られるものはない、という伝統的な教育観(練習の繰り返し、継続的な勉強、長時間の集中によって学習が成立するという考え)は
静的で予測可能な環境を想定したものであると主張したことは有名である。


我々が現在生きている変化し続ける環境においては、マインドフルネス教育の方がはるかに意味があり、効果的である。

マインドフルネスのトレーニングにより、集中力を高め、さらには記憶、自己受容、自己管理スキル、自己理解が向上することが研究によって示されている。

また、マインドフルネスは「ポジティブな感情、活気、生活満足度、自尊感情、楽観生、自己実現を高めること」や「自律性、コンピテンス、関係性を高めること」とも関係がある。

マインドフルネスは、さらに「抑圧と向き合う手法、世界的な危機と立ち向かう方法、知識を個人的・集団的行動に移すこと」ができず、そうした巨大な問題に対応できないことに立ち向かう方法としても提案されている。


短縮版のマインドフルネス瞑想トレーニングであっても、疲労や不安を軽減させ、視空間処理、ワーキングメモリー、実行機能を改善することも明らかにされている。

(太線は「ハピペン」)

私の求めているものが、詰まりまくりだと思っています。

自己理解やワーキングメモリーにも作用するというのが、特別支援的にも生かせそうです。

 

そして、朝のルーティンとしていいんだよなあ。でも、どのタイミングでやるんだろう?朝、起きて目を閉じてマインドフルネスしたら、寝ちゃいそうじゃない?って思って検索してみました。

「マインドフルネス 朝 ルーティン」で検索。

こちらの記事に出会う。

www.ttcbn.net

 

この記事に強く共感して、実際に朝5分間、目を閉じて「今日するべきことは何か?」と問いながら目を閉じる。すると、20個以上書き出せた。

 

「えっ!?」めっちゃ驚いた。

というか、今まで生きてて、これだけのことを常に頭の中から選んでたってことに愕然とした。

「そりゃ、疲れるわ」と。「何者か分からなくなるわ」と。

 

そうして、マインドフルネスもさることながら、急激に「タスク管理」に意識がいく。

(今、改めて検索してみると、上記の記事は5、6番目に出てくるのです。つまり、私は、その時点でどちらかというと、「タスク管理」に意識があったってことかもしれない。)

 

そうして「タスク管理」についても情報を集めはじめた。

思えば「ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)」にも散々書かれていたけれど、脳は信用ならないというか、正直という意味では信用できるが、認知的容易性といった、そのとき受け取りやすい情報、結び付けやすい情報に流される。

だから、日常は「本当にやりたいこと」よりは「そのときにやりたいこと」に流されてしまがち。

だから、こそそこで「タスク管理」といった、「やりたいこと」を「冷静な自分で判断するもう一つの脳」が必要なのだと感じた。

ここまできて、やっと「ファスト&スロー」の話が、実感を伴って日常で意味のあるものとなったことにちょっと嬉しい気持ちが沸いた。と、同時に、「えっ、学びが生きるのにこんなに時間差あるの!?」と、面白さも感じつつ、自分の脳のつながりの遅延にちょっと混乱もした。

今日は、まず、これを読んだ。

マンガでわかる!タスクシュート時間術〈超入門〉

マンガでわかる!タスクシュート時間術〈超入門〉

 

 

メタ認知(その1)

ちょっとつらつらといっとこう!!今日の最速の振り返り。

 

ここ2週間、ふたせんさん小学校教師ふたせんの朝3時からの共育現場〜育つ育てる育てられる〜のお陰で様々なつながりを経て、メタ認知に没していた(没頭の方が妥当かな、でも、もはや沈んで隠れ込んでいた感もある)。

 

ほんとーーーに有り難いこと!!!

おーーー疲れ様ーーー!

 

だけども……ああ……。ちょっと、疲れたね。

 

でもでも!

ナイーブなことばかり言うにもかかわらず、受けとってくださったことがとても嬉しい。

 

それで、じゃあ、

「これから何すんの?」

「どうしたいの?」

「何を実現したいの?」

と言われると迷うけれども……。

 

今の思いつきは、「幸せってなんだっけ」を職員間で一言ずつ話しても面白いなあ、と。

それと、学校教育目標なんかが結びついていて、日々の実践ともつながって、みんなが自分の幸せ観をもとに指導を振り返ったら、学校って明るくなりそう。(もちろん学習指導要領からは、外れない前提で)。

 

同時に、そんなことをしないと隣の善人に気づけない私なのだなあ、とも思うけど。

 

そうなると、大事なのは「信頼すること」だ。

でも、その信頼に値するかが、それこそ、メタ認知の違いかもしれない。

 

たとえば、みんなが思うような幸せ感と、学習指導要領とかの基準と、21世紀を掛け合わせて、子どもを見られたら、ちょっと安心して学校で過ごせそう。大人も子どもも

 

ところで、今は、明治維新レベルの過渡期らしい。

だから、「何者か?」は、思ったより自分で選んでいい、選ぶしかない、っていう印象を受けた。

それが当たるかどうかは、分かるわけがないのだった。

 

そういえば「根拠は後付け」(こじつけってのもある)。

この間、LSPで教わったことだ。もしそれでもよければ、教師はもうちょっと楽だけど、そうれでいいってわけにはいかないしなあ……。

そんな、なんでも、科学的根拠を示せますって超人になろうってのもないけれども。どの言動にも教育的価値は説明できると考えるとしても。

 

そうキツキツでギスギスしてくると、親しみやすさっていいなって思う。穏やかさ、平易。

下手すると人って自分が求めて手に入れた分、相手にもに求めがちだし。

「それもいいよ」って言える立場でもいたい。

ただ、これは、「自由」との戦いになるのかも知れないけれど、子どもたちがある程度の自由を享受して楽しめるように育てなきゃね。

 

たとえば、プログラミングをしなければならない、英語をしゃべれなければならない。下手すればそこまで不自由は来ていて、これまでの自由どころではない未来かもしれないのだ。

 

そこをなんとか、間に合うように。

 

自分のための学び。

あなたのための学び。

自分たちのための学びを。

 

 

みんながやっているから……というラブ

こどもの日の思い出といったら……エクスカイザーな「ハピペン」です。おじいちゃんに買ってもらって嬉しかったなあ……。

 

今日は、目の前にあるシナモンロールから「あれ?シナモンの声ってどんなだったっけ?」という流れになり、動画を探した。

 

とりあえずかわいい。その中で、「みんなも寝てるから寝よう」というセリフがあった。

3:40~4:00くらいのところ。

www.youtube.com

「そっかあ、私たちはみんなも寝ているから寝ているのかあ……」と思いながら、じゃあいつから、みんなが寝ていても寝なくなってしまうのだろう……と思った。

 

というわけで、結論から言うと、「みんな」を脅迫的なものではなくて、リスペクトやラブだったらいいなあってこと。

ここからは、シナモンを見て思ったことをつらつらと書いてしまった。

小さい頃から同調圧力に流されて「本当は起きていたい」という自分が抑圧されているから、人は苦しむのだろうか、などと考えてしまった。

けれど、「みんな」という理由で自分が動くとき、そこには不本意もあるかもしれないが、実際は「本当は起きていたいにもかかわらず、みんなが寝ているから寝ようという自分を尊重した」というのも事実である。

実は人は、いつも自分を尊重している(部分もある)。どんなときも、不服や不本意の方が大きいことはあるのかもしれないけれど、それなりに納得して、自分で選んでいるわけだ。

しかし、それが、あまりに自分からかけ離れた理性的な選択である場合、人は苦しいことになる。

そこには、「みんながやっているからやってみたい」という他者リスペクトのラブか、「みんながやっているからやらなきゃいけないけれどやりたくない」という自分リスペクトがあるのかもしれない。

まあ、「みんなとは違う自分」が出てくるのが、ある程度年齢を重ねてからっていう話に過ぎないのかもしれない。そうすると、みんなへの反逆。アンチみんながはじまる?だからシナモンの年代(?)は「みんな」で成り立つのかもしれない。

また成長すると、みんながやっていてもやってはいけないこともあるわけで、自律が必要になる。

「みんな」と「自分」のバランスを、メタ的に見ることは、価値観が多様化し続ける世界を生きるには必要だろうなあ、とつくづく思う。

シナモンからの学び。

今日は、外でのネットがつながらなすぎて、モバイルwi-fiに手を出した日。

 

 

 

競争から協働へ行くんだよね?

5:30起きを頑張るぞ!な「ハピペン」です。

朝のプラス30分を確保しよう、と。

 

さて、レヴィナスのせいで、マルクス形而上学が気になり、そこから、「共産主義」が気になって検索していたら、あるブログを見つけた。

共産主義がなぜ失敗したのか - 四十三庵

 

共産主義の問題点が書かれていて、資本主義の競争原理と職員室の大人の姿に共通するところを感じた。

 

私たちにとっての経済活動。それは「子どもをよりよくする」ってことだ。そこに「私はあの子見れます」という商品があって、それは市場価値が高い。それを持ってると、「私はあの子見れます」を、売り歩いて「意見を通す」という商品が得られて生活しやすくなる。

「うえっ、キモッ」って思うんだけど、巻き込まれている。

ただ、貨幣の価値が信頼なように、「私はあの子見れます」は、ファンタジーな部分がある。

「本当に見れているか」は誰にもわからない。

そこに「競争原理」が働く。

「弊社こそお客様のお望みを叶えてみせます!キリッ」

「簡単にすぐに良さを感じられます。弊社の方法はいかがでしょう!?」

なんらバカバカしい。

 

やっぱり、職員は協働者でありたい。いろいろな理論や根拠があって、すでに起こっている実践を大切にしたい。

畑の違いを責めるのはやめてほしいし、やめたいところ。

ねらいが違えば、手立ても違うから。

どこに向かっているかも大切。

 

そうなると「どんな実践もあり」ってことになる。価値観が多様化していれば本当に、尚、そう。

だから、気をつけなきゃいけないのは、提案や大人に対する施し方の角度だ。

 

たとえば、

・こちらがより正しいかもしれないという幻想をなくして伝える

・質問からはじめて議論する(相手が困っていれば提案の糸口がある)

・困っている、と、相談する。

・自分のせいにして改善してもいいか尋ねる。

 

ただ、面白いのは、頑な人もいてそれが分かっちゃうと「こっちは下手に出てんのによー!」って気持ちが湧くこともあるところ。

おいおい結局大ブーメランだぜ、と。

 

あー怖い怖い。教師は自分が正しいたら思ってることしか結局やりたくないんだよね。良いって言われる実践も良いと思えなければやらないし、やりたくないことは理由をつけて避ける。

実践方法と個性の相性もあるからそれでいいのだけれど。

だから、それは「お互い様なんだよ」ってことだ。

まあ、ただ、意味もなく「それはやめません?」とか、「とりあえず変えずに」とか、「様子を見ましょう」とかは、全部ぶっ壊したいけどね。

 

だからふと「いや絶対よくしてやるから」って心の中で思って、火がついて、その競争原理から実際に「高度子ども成長」が起こる部分もあるよなあ、と思ったエントリー。

 

変わらない指導で、変わらない姿の子どもを持続することは、平和・安定・普遍なのかもしれないけれど、やっぱり「変身」は必要だと思うよ。だから子どもは日曜、朝が好きなんだろうから。

 

だから、私は、変わることができない大人の共産主義はちょっと置いておこうかな。

ただ本当に置いていくわけじゃなくて「誰もが生きていていい」って考えも引き連れながら進む。

そうそう!だって、いつも競争のゴールには全員で座っているものね。

教師は「正常性バイアス」だけには気をつけないと

ニュースでGW後半って出てて「えっ……」ってなってる「ハピペン」です。

 

だな感じにニュースを見ていたらこの記事が気になった。

脱水機に腕巻き込まれ小2重傷 プールに設置、不具合か (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

 

平和ボケってわけではないけれど、病院に自動車がつっこんだりもするしね……。

 

ただ、教師は、教師だけは「正常性バイアス」に気をつけて子どもを守ってあげたいよな、と考えました。

正常性バイアス」は、

正常性バイアス(せいじょうせいバイアス、英: Normalcy bias)とは、認知バイアスの一種。社会心理学災害心理学などで使用されている心理学用語で、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。

 

今回言いたいのは、災害ってわけじゃないんだけど、日常的な「自分は安全」とか「自分は平和」って感覚についてです。ヒヤリハットに近いところもある。

 

実際は、人が安全に暮らせる背景に発達がある。

いくらどうでもいいなんて言ったって

道につまずいては

両手ついてる守ってる

そんなものだから

 

(な、懐かしい!)

ってな具合に、地面に手をつけるのも、自分を守る機能が発達しているからですよね。

 

しかし、そうやって反射で守れるものもあれば、バイアスがあって意識しないと守れない自分もあるわけです。

 

今回の脱水機の話を受けてまず思ったのは「想像力」です。

 

バイアスがかかってしまったことを意識して防御するには、「想像力」で応じるしかありません。(本能的な回避もあるかもしれませんが)

「体験」をして、その「体験知」を基に想像して防ぐしかないかな、と。

そのためには、「安全指導」も必要だなあ、と思って。ケーススタディっていうか、大それた研究ってわけじゃないけど、視覚的に例を示して「こういう場面でこんなことをしたらどうなりそうか」を挙げて日常にある危険へのアンテナを高くさせるのって大事だよなって思いました。

危険を認識させることは日常に不安を抱かせるというよりは、自分を守れる安心感につながると思う。

あと今回のは、脱水機を見て直感的に「さっ!と取れそう。いけそう。」って思ってしまったのかもしれない。

もしくは、それが脱水が終われば自然に止まるのではなく、そういうつくりのもので、自分が脱水できたと思ったら取るもの。そう思ってしまったのかもしれない。(開いちゃいけないフタが開いてしまったのだからね)

そして、その目の前に起こったことに対して、バイアスに流されずに立ち止まって構えられるかは、やっぱり自分を守ろうとして「想像力」を働かせることなのだろうと考えました。

毎日ある掃除なんかでもケガは起こる。

「いつも通り」って日常的なバイアスがなくはない。

ぞうきんがけで前の子が止まって、それにぶつかって転倒して泣くなんてことがある。しかも高学年。

「いや止まれよ」「そういうスピードでやれよ」とちらちら思うが、細かく「車間距離」「スピード」「前方を見ながら」と将来教習所に行った際に役立つ生きる力みたいのを意識して育てようとはしていなかったので、注意しきれていなかった。

反対に高学年だからこその例なのかもしれない。体が出せる力を把握しきれていないってことか。

今日、ぞうきんがけで、友だちとぶつかって泣いている子どもを見て、思考がつながったので書いたエントリー。