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それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

不登校の記録

子どもの見方 特別支援教育の視点

急に高熱の「ハピペン」です。あーあ、これ絶対来年度へのストレスだわ……人はストレスがかかると免疫が落ちる。環境の変化に弱いってのは、きつい弱点だなあ……。

 

X年、「不登校」、「虐待」、「いじめ」の対応が重なって大変だった。
そのうち、「不登校の記録」を一つ書いておこう思う。
(内容は事実と多少変えているところがあります。)

 

ミッション1:「修学旅行」に向けて

彼は、5年の途中から不登校になった。最初は、何かしら理由のある休みだったが、途中からは、理由なく休むようになった。

 

6年になって、家庭訪問をはじめた。(それまでは学校への拒否感が強く、保護者と相談しながら妥当ではないと判断したため。)

基本は月2回程度。

はじめは、やはり会ってくれなかった。

しかし次第に窓越しなどで会えることがあった。ゲームの話題などを話す。

一先ずは「修学旅行」の話をすることを目指すラポール形成。

一度だけ今年度の教室の風景などを写真で見せたが、やはり拒否感が強かった。

それからは、信頼関係が出来るまで(向こうが安全と安心を感じられるまで)、向こうから出ない限り、「学校にかかわるワード」は一切出さないことを徹底した。

 

そして、1か月半ほど経って、修学旅行の話をするも、本児の意向で行くには至らなかった。実際は「卒業式」を視野に入れていることもあって、ここではあまり無理はさせなかった。主な交渉はご家庭に委ねていた。

お土産はすごく喜んでいたそう。

 

ミッション2:「卒業写真」に向けて

「修学旅行」が終わって、交渉しなければならないことがないため、より気兼ねなく会うことができたように思う。

次のゴールは「卒業式」になるが、それまでにすべきことはいくつかある。

大きいのは「写真撮影」「卒業文集」など。

流れとしては、「写真撮影」で一度学校に来ることを目指し、そこから卒業への意識を感じさせ、卒業のための頑張りを賞賛しつつ、文集などを提案してみる。

しかし、相変わらず、「学校に関するワード」は出さないようにした。

どこかのサイトで家庭訪問にお土産は有効というのを見てから、お土産を意識するようになった。これは良かった。最初はちょっとしたものを渡して終わりだったが、食べ物をもっていくことで玄関先まで出てくれた。

そのときに、次に来た時に一緒に遊ぶ交渉をし、OKをもらえた。そこから、カードゲームなどをする関係に移っていく。

これが、9月から11月くらいまで続く、1年ってあっという間で、実際に会った回数だと20回あるかないかぐらいなのだと思う。

一緒に遊ぶことは楽しかったようで、心に良かった様子。

「写真」は誰にも会わない工夫をして、絶対安心の状況を説明して、OKをもらった。

交渉で気を付けたこと

姿勢

気を付けたのは「本当にどっちを選んでもいいよ」いう姿勢。大人たちの中には「本当は来てほしい」があるけれど、それは一切思わないようにする。その話をするときだけは、むしろ「来なくていいよ」ぐらいの姿勢で子どもに寄り添うイメージを持って話す。

来るメリットをきちんと伝えることもする。「思いでにはなるかな」とか「成長のチャンスって言えばチャンス」「挑戦したいなっていうのが少しでもあればやるのはめちゃくちゃいいことだと思うよ」みたいなことは言ったかもしれない。

俗にいう「登校刺激」、特に「直接的な登校刺激」「来させようとするような登校刺激」になり得る言葉かけは控える意識をしていた。

伝え方

誰が言うかもかなり重要だった。
トー
・一文の文字数
・それを話題にする時間
・質問の回数(質問は相手への負荷が強い)
同じ話題を二人以上で交渉しない(特に重要)
などに注意が必要だった。
私の見立てでは、高い声はダメ、20文字程度で句読点を入れる(3つまで)、学校の話は10分以上は強いストレスになる、質問は3回まで、一人が交渉に当たるというのが彼が心地よく反応できる条件だった。

結果、「卒業写真」の撮影には来られた。
何日ぶりかの学校。やっぱり、どの子も学校にいるのが普通でいるべきだと強く思う。様々な理由があって、いない選択ももちろんあっていいと思う。だけれども、学校側は、いられる環境を追究し続ける姿勢が必要だと思う。

「卒業写真」に関しては、本児も「よっしゃー」などと達成感を感じていた様子だった。本児の見通しの中であれば、安心して過ごせる。それにプラスしてせっかくだから、他の先生に挨拶しようなど、予定を大人が起こそうとすると、憤慨激高する。そう、ついそうしてしまう大人が周囲にいるという背景がこの子にはある。

別によいとか悪いとかではなくて、そうしたくなる気持ちも十分わかるし、そこにある環境を資源としてできることをするしかないのだ、と思う。

「なんだよ、もっと介入しねーのかよ!」と文句を浮かべる方もいるかもしれないが。

なぜ「登校刺激」を控えめにしたか

それは、こちらだけで勝手に判断したわけではない。当然、各関係者で相談しながら決めた方針である。

ご家庭のゴールイメージが「卒業式」というのもあった。もしご家庭のイメージする

ゴールが「学校へ行かせる」だったら、少しは対応が変わったかもしれないが、それは子どもを傷つけるリスクがあっただろうと思う。

もし、それをせがまれたら私たちは躊躇したと思う。

原因が学校にあると判明していれば、それを取り除くように配慮する。しかし、今回のケースは、原因は不明だった。ただ、なんとなく同級生や学校への拒否感があった。

もし、大きな改善をしようとしたとき、ご家庭への介入が不可欠だということが見えていた。

しかし、今はもう金八先生の時代ではないのだ、と私はいつも思った。一人の教師に依存してそのとき良い姿を少しでも表出することができても、それが持続できなれけば、また自信を失うこともある。ご家庭が力を付けるたに介入することは、理論的にはあり得ると思う。しかし、一つの家庭の改善に力を注ぐと、こちらも崩れ落ちる可能性がある。

ノウハウはある様子。やるなら、それだと思った。しかし、チームで相談した結果、そこには行きつかなかった。また、地域で大きく介入している人もいた。それでも、パターンから抜け出せない現状がある。ならば、本児を育てるしかないのだが、そう簡単に行かない。多方面で見守って、本児の心が育つことにも期待しながら、一部の大人が気づくのを少しずつカウンセリングをしながら待つしかない。

 

ノウハウってのは、前に紹介したことがあったやつです。

inclusive.hatenablog.jp

 

ミッション3:卒業式に向けて

「卒業文集」は、冬休みを通して3度ほど添削を行って完成させた。ここはご家庭の力が大きかった。

そして、3学期、いよいよ「卒業式」をどうするか、という話になる。

方針は、不登校新聞の記事を基に考えた。

80人の卒業式に関する感想。

出席して良かった:36%

欠席して良かった:80%

【公開】不登校80人、卒業式に一番多い感想は? / 不登校新聞

 もし、彼が「欠席」を希望したときに、残りの2割に賭けて押すかどうかをチームで話し合った。結果は、彼の意見を尊重しよう、となった。

つまり、作戦としては様々な手を尽くして彼の動機を高めることしかなくなった。

「卒業式」の意味や価値、いかに出るべきか、強烈な交渉、普通はそうだから、などではなく、彼が出たいと思える手立てを出来るかどうかが、勝負になる。

学校側

学校側は、確実に他の保護者も児童もいない環境で好きな食べ物を食べる会に招待し、学校に来させた。

あとは、

・フット・イン・ザ・ドア

「今日楽しい?」「おいしかった?」などで、Yesを取っておく。
そして「ちょっとだけ卒業式の話してもいい?」と聞く。

・選択話法

「卒業式、『体育館でみんなと一緒に』と『別の部屋で今日みたいなメンバーで』だったらどっちがいい?」と聞いてみる。
おそらく迷って答えられないということもあると思う。

・ドア・イン・ザ・フェイス

「迷うよね。そもそも出ようかなってのもあるもんね。でももし、出るとしたら『体育館』ってどう?」
「いやー無理!」
「じゃあ、今日みたいな感じだったら?」
「ちょっと迷うなー。」
「いやー、考えてくれて、ありがとうね」

(この時点で、卒業式に関する質問は3つしているので、これ以上は詰めない。)

・希少性の原理

なので、最後に動機につながるような、話をして終わる。

「せっかくだからさ“特別に”他の場所での卒業式もOKをもらったからね」「本当にもう6年の最後だからね」「無理はしなくていいと思うけど」「きっと学校でもらって気持ちいいってのもあると思うんだよね」「ちょっとでもできそうだったら頑張ればいいな、って感じはする」っていうようなことを言ったと思う。

そして、あとは、ご家庭でもう一度話をしてもらうことにした。

ご家庭側

ご家庭はご家庭で、「卒業式」に向けて、どうすれば彼の期待が高まるか、寄り添って考えてくださった様子。

卒業式に着る服をレンタル出来る店の前を買い物のコースでそれとなく通って、着たいかを探ったり、その後お昼を食べにお祝いする予定を組んでくれたり。

大変なご協力があったと思う。

そして、結果、放課後別室で卒業証書を受け取ることができました。

彼にとってのベストを、本児なりに見出し、辿り着けたことは、本当に偉かったなと思います。彼が自己選択力を身に付けていくことは課題だったので、結末を決められたことは本当によかった、と思いました。

 

最後に

不登校新聞の記事の最後の方にあるのだが、

当事者は複雑な心境を持つこともある。
周囲がすべきは、やはり本人の意思の尊重ではないだろうか
卒業式当日まで本人が出欠を悩んだとしても、結論が何度も変わったとしても、「いま」の意思が周囲から尊重されること
それが本人の納得、ひいてはその後の肯定的な捉え方へとつながっているように思える。

【公開】不登校80人、卒業式に一番多い感想は? / 不登校新聞

(下線は「ハピペン」)

本人の意思の尊重に徹して良かった。

どんな形で卒業式を迎えられるかは、正直どうでもいいのだと思う。

自尊感情って自分の理想に対する自分の評価だし、形はある種どうでもいいわけだ。

納得して卒業していくことが大事だと思うし、決めたことの良し悪しを卒業式に関しては否定したくないかな、と。誰のせいでもないような部分もあるもの。

自分の自分への評価に納得がいくなら、その決めた参加の仕方がベストだ。

このちょっと自分なりに頑張った感じが、「オレやったよなあ感」につながって、次のステージでも少し背筋を伸ばして過ごせるんじゃないか、って思う。

卒業式は、これまで育ててくれた誰かのためのものって前に、自分のためのものでもある。とにかく、外部にある大人たちの思惑を本児の動機にどう転嫁するかが、かなり重要だなあと思う。これは、どの子の指導にも通ずることだろう。感謝の必要性を脅迫して素晴らしいコールを言わせたってしょうがないわけでね。

そして、やはり、転嫁には関係作りが鍵だ。その関係づくりには、かかわり方のノイズが少なくストレスにならないためのテクニックがいる。

そうして、その子の中に入れてもらう。
そして、子どもってのは、その自分の中に入れた人のために、頑張ろうとか、やってみようとか、喜ばせようとか思えるんじゃないだろうか……。

とりあえず、自分なりには、ミッションコンプリートな思い。
以上、報告終わり。

先生という名のつく人

教師の在り方

朝から皮膚科の「ハピペン」です。

 

年齢が重なると、身体で気になったことがあったら、すぐ医者に行った方がいいですね。

 

「先生」の解決力

お医者さんに行くと、いーっつも思うのが、「即具体的な解決を出せる」凄さです。

 

皮膚科であれば、外側にあるものだから、というのもあるかもしれませんが、15分もしないうちに、長い間悩んでいたことへの解決策の示唆をくれて、安心につながります。

 

THE先生って感じがします。

 

そして、その先生は、より専門的なところ、ということで、紹介も提案してくれました。

そして、紹介状をもらって、適した設備があるところへ行ってみることにしました。

患者が「よりよくなるため」な感じがとてもしました。

 

21世紀に求められる「人を結びつける力」

世界が相互依存を深めるほど、我々は、生活や仕事、市民活動において他者同士を結びつける力をもつ協働の実践者や組織作りにたけた人を頼るようになってくる。

(21世紀の学習者と教育の4つの次元:P3)

21世紀の学習者と教育の4つの次元: 知識,スキル,人間性,そしてメタ学習

21世紀の学習者と教育の4つの次元: 知識,スキル,人間性,そしてメタ学習

 

 

これからの力ある人は、人をつなげられる人なのだろう、と思いました。

その実際を町のお医者さんから感じ取ることができたように思います。

町のお医者さんは、要はその地域の窓口の役割を果たしているわけですね。

そこに、「多様なつながり」があれば、人はそこに行きさえすれば、よりよい解決ができる新たな場所を紹介してもらえる可能性があるわけです。

 

現在、求められているのは、スペシャリストでもゼネラリストでもないと言われます。

どんな人が求められるかと言えば

「多能な人」(バーサタイリスト)です。しかし、現実に「多能な人」が存在するのは簡単なことではありません。

 

ならば、複数人で「多能な集団」になろう、というのが昨今ですね。

それをお医者さんに行って、実際に体感しました。

 

あれ?学校の「先生」は?

学校の先生にもお医者さんみたいな視点が必要ではないか、と思います。

 

⑴解決のための知識

まず「知識」です。

子どもの実態を視診、問診(触診はあまりないかな)を通して、判断して、応じる。

そうして自らの力で解決するための知識やデータベースをできる限り多く蓄えること。

 

⑵人を結びつける力

これだけ多様化が進む中で、「担任が担任が」とならなくてもいいのかもしれない、と思いました。

21世紀に求められるように、人を結びつける。教員同士でその子にあった大人を結びつけてしまってもいいように思うのです(「みんなの学校」的な発想です)。

そのためには、教員同士がお互いをよく知る必要があります。自身の専門性を磨き、周囲に分かりやすくアピールするというのも必要。

 

ところで、上の引用にも出てきた、「相互依存」という言葉。アドラー心理学でも出てくる言葉です。

アドラーは最も崇高な人間関係を、「自立」した人々による「相互依存」関係と言っています。

 

教師は、つい「自分の力を示そうとすること」が少なくないように思います。

それが、「自信」がなく「承認欲求」などに翻弄されて「自立」していないから起こるものでないといいな、と考えました。

 

私たちは教師として「自信」をもって「自立」し「相互依存」する。

そして、子どもも大人も含めた校内の人間関係をより円滑によりよくすることを目指してもいいんじゃないか、って話。

 

「昨日と今日の疲れ方の違い」

自分なりの視点 指導のネタ

今日は「小論文」の講習な「ハピペン」です。

 

「疲れたは、疲れた。でも、あれ?昨日と疲れが違うわ!?」

 

今日のは「アウトプット」の時間があったからかな?

内容や使われる言葉で「知っていることが多かった」からかな。

 

昨日と今日の「同じ」と「違い」を書いていく

《同じこと》

【最寄駅】「神保町」

《違うこと》

【天気】
昨日:「晴れ」
今日:「雨」

【建物の場所】
昨日:「駅から徒歩5分で12F」
今日:「駅から徒歩10分で4F」

【内容】
昨日:
150分講演(内10分休憩、5分程度のアウトプット)
昼休憩
240分実践報告とトークショー(内10分休憩、5分程度のアウトプット)

今日:
90分講義・60分アウトプット
昼休憩
90分講義・60分アウトプット

 

昨日が長すぎるのか!!

疲れの差は何処から来るだろうか。

【時間】
昨日の方が1時間多かった(始まりが30分早くて、終わりが30分遅い)。

【聞いている量】
昨日:390分
今日:180分

【体調】
昨日:修了式・納め会後。
今日:昨日の講演後・ちょっと居酒屋後。

【人数】
昨日:100人から150人。
今日:8人くらい。

 

効果的な学びについて考えたくなる日程でした。どちらも貴重で有用なのだけれど、とにかく疲労感が全然違う。

著名だとかすごいなあって話は昨日だった。でも、楽しいのは今日だなあ。

 

共につくるとか、参加とか、活動とかが、楽しさを生むのかな。

それも生半可じゃなくて、今日で言えば「3:2」だ。

自分の感覚で言えば「5分の2」は主体的な活動がいいのかもしれない。

 

学習効果が高い「講演」や「ワークショップ」のプログラムのセオリーがあったら是非聞いてみて生かしたい。

「あなたが"より"重視するのは?」<基礎学力の保障>と<コミュニケーション力の育成>

自分なりの視点 子どもの見方

脳の最適化がしたい「ハピペン」です。ブログを見てくださっている方は分かるでしょうが、頭の疲れが全体的に取れない。スッキリしない……。ブログを書くことで多少のモヤモヤは解消されているけれども。

 

今日は、講演会に行ってきました。

 

最前線の悩みと現場の悩みはだいぶ一致してきているのだろう、という印象。

 

その間にある何かによって、ひん曲がることはあるみたいですが……。

 

国レベルのフロントランナー的な明日の見えなさ。

現場レベルの百者百様の実態に対するどんな力を付けるべきかの見えにくさ。

これらは、同じ根っこから生えているように思う。

 

表題の二つ。

「基礎学力の保障」

「コミュニケーション力の育成」

が大きな両輪。

 

この両輪のバランス。実態に合わせて何を剪定し、何を育むかが問われる。

 

「どちらを"より"重視すればよい」という絶対解はない。

実態に合わせて未来に必要だと考えられる「身に付けさせたい力」があるだけ。

 

そしてこの「身に付けさせたい力」は、教師の観点によって変動してしまうところに、これからの時代の変化を想定した教育のややこしさがある。

 

「未来にとって何がいいか?」は、前例のない未来を生きていくことになるため想像するしかない。

その想像の「質の良し悪し」は、教師のイメージする未来に必要な「価値観」でしかない。

 

研究の発表も「質的データ」が主になる(別に悪いって話ではない)。

 

どのような質的変容を(見えない内的な変容も)、「イイネ!」って思うのかが、「実践内容の良し悪し」になるってことかな、って思う。

 

その「イイネ!」って「質」の「価値観」を、個人→学級→学年→ブロック→学校→地域のレベルで、共有していくことが望ましいとされる(チーム学校的な)。

 

これは、下手すると「我こそは正しい」となっていく。(「これだけは気をつけろ」と何度も言っていた。)

 

「基礎学力」と「コミュニケーション」について、どちらを重視するか挙手をしても会場では2:3だった。そこにいる人によって価値は変わるのだと感じる(やはり「絶対解」はない。)

 

この先「価値観の多様化」から一歩進んで「価値観の多様性を認める」が日本中の流行の言葉になってほしい。(これも全く反対に流行らないでほしいって人がいるのもたぶん事実。)

 

そんな中で、私たちは「どんな根拠」があるから「どんな価値観」でいき、それは「何のためなのか」、しっくり来るものを探して未来に備えるしかないってのが一つのアンサー。

 

大きな枠組みが、アンサーを一歩進めるヒントをくれる。

概ね予測できるところが「大ーーーきな枠組」ではある。

たとえば、AI、IoT、ロボティクスなどは発展する。そして、2100年が来る。「そのときに必要な力」をイメージをすること。

 

人間は、未知、イレギュラー、変数に遭遇した時、どんな力で応じるのか。

 

先人・先哲、読書、歴史から学ぶことが強く求められる。

 

これだけ不安を煽られ、それを越える希望や期待を生み出すために、産業革命時代の教育は、本格的に次の新しい時代の教育へと歩み出した。

 

「誰が正しいか」を訴えている場合ではなく、「誰もを生かす」を形にできたらいいな、って。

 

さあ、どうする……。

感謝が降り注ぐ日

自分なりの視点

お花いっぱいな「ハピペン」です。

 

修了式。今日でお別れの人もいるため、昨日は手紙をたくさん書いた。

 

反対に手紙をもらいもする。

手紙を書くってのは、当たり前のように行うことだが、簡単なことではない。

 

それだけのことをした、なんて思いは全然なくて、あったのは、「学校って楽しい」そう思わせたいだけだったような気がする。

 

たとえばお家の方は、その熱が嬉しい。(ニーズによるとは思うけど。)

 

幸せな子ども時代を過ごす子どもを一人でも多く増やしたい。

一人も置いていかない。

一人ひとりに合った見方をする。

 

そういう意味では子どもが好きとか、子どもに惚れ込んでいるとか、ってことかもしれない。

 

子どもが安心して未来を目指せることが、なんでかたまらなく嬉しい。なんでかは、分からない。

 

一つ思うのは、感謝されることに対して、感謝したくなるような、「ああ、よかった」って静かな思い。

 

"子ども"を見逃さなかっただけなんだけどね。

 

 

「ルール(ソーシャルスキル)」よりも「認知能力」

特別支援教育の視点

右目だけかゆい「ハピペン」です。実はほんのわずかだが、この最初はメタ認知だなあ、と思う。

 

クラスの中で、暴言・暴力・授業妨害がなかなか止まない子がいる。

その子に必要なのは「ルールを教える力(こちらよりの視点)」よりも「ルールを理解する力(相手よりの視点)」だって話をする。

再び「お楽しみ会」からのネタなのだけれど。

 

あるクラスの子(以下、Kくん)は、入学からずっと暴言・暴力が止まない。

 

つい2学期まで、話題に挙がっていた。

朝会なんかでも、背の順で真ん中辺りで、校長先生の話の最中にど真ん中で乱闘が起こったりしていた。

 

休み時間は、周りの遊びに入れてもらえず一人で遊んでいることもしばしば。

 

Kくんの3学期のお楽しみ会での姿。

 

「おお、みんなの中で話し聞いて、文句を言わずにやってるじゃん!」って感じだった。

 

その後「しっぽとり」をする中で、「あいつ(Kくんとは別の子)ルール分かってねー」と言った子がいた。

タグラグビーのタグを二本つけて取り合っていたのだが、相手のは一本ずつしか取っちゃいけないというルールがあった。

それを間違えて二本取った子がいた。

 

このクラスには「オレが守っているルールを守れないやつはダメ」という風土があるってことかな、と思った。(「失敗禁止」まではいかないとは思うが。)

 

 さて、ルールが守れない子に働く要因は何か。

・周りのルールの説明がそもそも下手

・脳の特徴からセルフコントロールが苦手

・周りに責められる周囲からの二次障害でセルフコントロールができない。

・集中力に困難があってルールを聞いていない。

・ルールを理解する知的能力が不足している。

 

これらを責めるか、カバーするかは「教師の力量」による、っていうので合っているだろうか。

 

説明する力、ルールを理解する力を身に付けさせるのは誰か。

ルール破りを発見して文句を言う力をつけても仕方ない。

 

ちょっと横道に逸れるが

「バカ発見器はいらない」と昔言ったことがある。それをよりよくしないのなら構うな、と。

これが、「バカって言ったら自分がバカ」の謂れかな、と思っている。賢者は気づいたら改善しようとする。

 

その子の特徴・苦手に合わせて伝えられるようにする。また、受け取れるようにする。その力を付けることが当たり前な重要。

 

伝わらないことを相手のせいにしないし、受け取れないことを相手のせいにもしない。「分かる」という目的のために何ができるかが大切。

 

Kくんが、みんなと過ごせるようになったのに、「ルールを理解する力」が上がったのではないか?と考えた。

 

担任が秀逸な注意・指導の仕方をしたからというより、Kくんの認知能力が上がったのだ。

(周りの説明する力やルールを守れない子に文句を言う風土は見られたから、そう結論付けた。)

 

ルールを教え込むっていうより、その子の能力を上げた方がルールが入ることがある。(泣いていることに対して怒鳴ってもしょうがないっていうイメージ)

 

支援の子でも毎日泣き叫ぶ子がいた。

それでも、ひらがなを読めるようになったころから、落ち着いて過ごせることが増えていった子がいた。

 

「そんなの分かってるよ、それを認知させるのが支援でしょ!」って言われたら「はい」って言う。

数年前はじめてのドッジボールで首が取れた……!?わけないでしょ!

特別支援教育の視点 子どもの見方

今日、数年前に受け持っていた子がドッチボールをする姿を見て「成長したなあ」って思った「ハピペン」です。

 

「今すぐ死ね!」

「学校を壊せ!」

「お前は頭がおかしい!」

と毎日言っていた子も、年月を経て通常級で過ごすようになり、友だちとドッチボールができるようになったようです。

 

入学して2ヶ月くらい経った6月、励まし続ける私の言葉にその気になり、その子は小学校で始めてドッジボールに参加しました。

 

「よし、いけいけー!」な私。

初参加の彼は見事、数秒後に顔面でボールを受けた。

「おっ!そう!それが社会生活だ!」と呑気な私と激高する子ども。

 

「ふざけるな!お前のせいだろうが!」

 

「いや、最終的に参加を決めたのは自分でしょうよ!まあ、分かるよ、大丈夫?」

 

「なんでなってないお前が分かるんだ!死ね!」

 

「いや、顔に当たって驚いたんでしょ?」

 

「そうだよ!首が取れたらどうするんだ!」

 

「(えっ……?)そ、そうだね!」

 

「死ぬかと思ったんだぞ!」

 

「(いやいやいや……)もしかして、顔にボール当たったの今日がはじめて?」

 

「そうだよ!当たり前だろうが!」

 

「(当たり前かは、知らんわ……!)あー、そりゃ、驚くよね、そうだよね……。こ、怖かったね!でも大丈夫だよ、首ついてるよ。実は人間は子ども同士のボールが当たったくらいなら首は取れないんだよ!」

 

「うるせー!」

と言いつつ、ちょっと安心した様子。

「(マジで首が取れると思ったんだろうなあ……。ほら、やっぱりビバ社会生活なんだよ!)」

 

思えば、彼のドッジボール人生は、あの時はじまったのだなあ、と振り返る。

よくあの時「生まれてはじめて」って直感したなあ、と自画自賛

共感を飛ばした受容と図星を突くことでパニックを収める力を強制的に鍛えられていった年……。

 

そんな子も、今では、わざと前に出て挑発してらあ。

 

ドッジボールをしてボールが顔に当たらなければ、子どもが投げたボールが顔に当たっても首が取れないということは分からない。」

 

当たり前のことが分からなくとも、イライラせず、それを楽しむ余裕は大事。

それが、その子を許容するってことのヒントだと思う。

 

お前の考えいていいよ、って。

受け取れるよ、大丈夫だよ、って。

 

まあ、慰めてやるからこっちこい、って。

そういう二人三脚だったなあ。