何にせよ、目的がある方がやる気が出るものなのだな。
手紙を書く時間に子どもたちは15分、しーんと集中して机に向かっていた。相手への共感を感じた。優しい人たち。
そう目的をもって学びを楽しみたいよね。
何にせよ、目的がある方がやる気が出るものなのだな。
手紙を書く時間に子どもたちは15分、しーんと集中して机に向かっていた。相手への共感を感じた。優しい人たち。
そう目的をもって学びを楽しみたいよね。
と思いながらもらフォローを受けて癒されまする。やっぱり見ている人はいるから。頑張ろう。
いよいよ『授業の腕を上げる法則』が10までいったので、よかった。
10は優しい原則でした。
第十条 激励の原則
下校時刻にちょうど雨が降り始め、びしょびしょになりながら、下校指導をした日。それで力尽きたな。
報復や報いは、とても冷たいことだと思う。
「あの人は、ああだから、こうされても仕方ない」というのは、とても冷たいことだ。私としては、悪循環を生む公式でもあると思う。
たとえば、「あの人は冷たい。だから、周りに冷たくされても仕方ない」としたら、その始まりはどこにあるのか。にわとりたまごであるし、どちらも同じ穴のムジナである。ならば、せめて、自分は優しくあって、そうして、その人の優しさに触れようとしてみたい。
今日は指導案の作り方を少し聞いた。忘れないようにしなければならないポイント。
そこの現実的な工夫が見たいとのこと。なので、頑張る。
これは、単元計画を元に、指導を鳥の目で見て、当てはめていかないとハリボテで終わりそうである。
ただし、それを構築する時間が……あるだろうか。
今日は、体育で惨敗でした。残念。大失敗。計画不足である。次、頑張ろう!!
他もてんやわんやだったけれど、気をつけたところは、気をつけただけうまくもいっている。今日は、着替えのことくらいだけれど。
ただのメモなのだけど、6月で「はてなpro」をやめることにした。ブログの在り方もまた考えていこうと思う。
向山式について書く。
最初の出会い。大学の図書館にズラーっと全集があるのが目に止まった。
すでに網羅的に教育法というのは、提案されているのだなあと驚いた。困ったら、こういうものを参考にしろということかなとも思った。
タイトルを見て、自分の中にスッキリとした解答が浮かばないものをパラパラと見た。すごいなあと思ったし、反対にこれは、知らないことは知ってないとマズイとも思った。
それから、時間を見つけては、立ち読み風に全集に目を通すようになった。
ただし、その時その時の思いつきで見てしまっていたために、心に残っているものもあれば、残っていないものもあるし、どれに何が載っていたかが曖昧になってしまっている。
そして、今年。改めて自分の力のなさにようやくはっきりと気がついて『授業の腕を上げる法則』を、きちんと身体に染みるように読んでいる。
実際にその身体で子どもに触れると、子どもは伸びるし、楽しそうだし、私も楽しいと感じた。
向山式には「対40人の子どもが、教室という小さい部屋にいる時の、そこに携わる人間の行動規範が示されている」と思えた。
時間と空間という制約がある中で、「こうしたい時には、こういうやり方」というのがよく示されている。
学校は特段、「時間の制約」があまりにもありすぎるのだと、今は理解している。そうなると、どうしても効率性を求めざるを得ない部分がある。では、どうすれば「40人が効率的に学べるか」の作法が向山式には示されていると言える。
伸びやかにその子なりのペースでいいのなら、向山式は必要ないだろうなと思うが、教科書を辿るだけで時数が目一杯なので、そうした余裕は今の現場にはないなあ、と思う。
学級とは、学級経営と言われるように、教師はそこの経営者である。何かをさせなければならない部下を、40人抱えた組織なのである。
その何かをさせるための、規律を経営者が示さないと、各々の判断で行動が選択され、学級という組織は空中分解していく。
実際は、一人ひとりの「思い」を大切にしながら、経営していくことも可能だろうと思う。ただし、それには、経営者の人間力が必要である。教師だからというのではなく、誰でも話しかけたくなるような、人となりである必要があるということだ。それは、見た目からはじまり、立ち振る舞いや、特技、ユーモア、これまでの実績などなど、世の中でインフルエンサーと呼ばれる人のような魅力が必要だと思う。いわゆる『影響力の武器』にあるような項目のことだ。一言で言えばカリスマ的かということてまある。
私にそれはないなあ、と思う。だから、足で稼ぐしかなくなる。単純接触回数を増やして、コミュニケーションを重ねて、組織を経営していくしかない。ただし、学校にはその時間がない。特別支援学級では、できた。それは、一人当たりへの時間数が、通常の学級より多いからという単純にそれだけのことである。人は時間のゆとりさえあれば、誰とでも仲良くできるのだろうなと思う。
通常の学級3年目にして、ようやく分かった。つまり「ハピペンの手法では、一般的な人の目から見て通常の学級で果たすべきと思われるような責任を果たせない」ということだ。
時間というコストをかけまくれば、なんとかなるかもしれない。日記を書かせて、毎日コメントするとか、定期的に個別に話し合う時間を設けるとか。ただし、現実的ではないと思う。関係づくりに、コストがかかりすぎてしまう。実際に必要な関係は、1年程度もてばいいもので、一生続くようなものでなくていい。反対に、コストをかければ、その分関係は続くものになるだろうと思う。
もちろん関係の中には、フィーリングが合った、かつ8:2の法則もあるため、時間とっていようがいまいが、影響力が強く働く子もいる。
1年目は、ある子が転出してしまうということが、クライマックスだった。その子は、なかなか席を立つ子だったが、その子がその子でい続けながらも、周囲の寛容とか愛とかによって、受け入れられるということを体験し、みんなが微笑ましくなれた雰囲気のある物語だった。ただし、学習を全員に自分が満足いくように教えられなかった実感がある。
2年目は、違和感があった。管理される楽しさを提供しきれなかったからだと思えた。
話を向山式のことに戻す。向山式は、いわばバンドスコアである。いつかギターの雑誌に「コピーにも個性は出る」と書かれていたように、どんなに完全コピということをしても、そこにその人の個性は出るということだ。そうなると、どんなに法則化が形式貼ったものでも、自分というものは現れてくるだろうと思う。そこで大事なのは、「自分はそれを演奏したいか」たいことになる。自分の耳で聴いて、その曲をいいと思うか。その過程をすっ飛ばすと法則化は、よくない。その人が何を奏でているかではなく、その人が奏でていればなんでもいいとなってしまうからである。それでは、盲目である。自分は、演者ではなく、ファンになってしまっている。教師であれば、教師ではなくファンになってしまっている。教師だから、ある指導の仕方が必要だと感じて、それを学ぶことと。ある教師がやっているからと理由で、私もそれをやるということ。では、後者は、ファンでしかない。
昨年、組んでいた先生は、学級経営が上手だと思った。この間久しぶりに教室にいっても、今年はさらによい雰囲気だと感じた。
いろいろな子どもの見方を教わったが、今になって見ると、随所に向山式が散りばめられていることが分かった(というよりは、長い教師経験を積むとそうなっていくだけなのかもしれない)。特に、「個別評定の原則」が重要だと感じた(なんと、これは「第九条」の原則ということで、明日が楽しみである」)。
今日、本を見ると、その先生のやり方に近かった。
- 丁寧に書いたかどうか、先生が見ることを知らせる
- 書き方を教える
- 評定することを知らせ、不合格ならばやり直しをさせる
- ◯か×、A・B・Cなどの評定をノートに示す
評価は「うまい」「よくできた」「かしこい」「はやい」「よくがんばった」などであり、評定は狭い範囲で、子どもの力のレベルの位置を定めることになる。
ハピペンは評価ばかりだった。ただし、評定は、競争の脳を呼び起こしましてしまうと思う。だから、いろいろな子がいろいろな場面で活躍し、どの子も良い評定をもらい得るように活動を考えたり、視点をもったりする必要はあるだろうなあ。
話をまた元に戻すと。そうした、熟練した人の振る舞いの中にある、子どもが安心できるような。もとい、「対40人の子どもが、教室という小さい部屋にいる状況」で、安心できる組織づくりに必要な振る舞い・リーダーシップ・作法が、向山式には散りばめられている。
そして、自分の教えたいことを教えるには、さらなる効率化も必要で、スピードが上がって、リズムが良くなって、テンポも早くなって、時間を確保する必要がある。それには、杉渕先生の「ユニット式」が役に立つだろうなと思う。これもまた学習していこうと思う。
もちろんカリスマティックに、その時の学校での立場に応じて、学級で影響のある存在として君臨できることも多々あると思う。ただ、うまくいかないと感じたり、自分の満足感がない体験をしたから、「自分で在る」ということよりは、普遍・不変の技術が必要だと思った。そして、どうしたって、何を学ぼうが、何をしようが、そこに自分というものは、いつだって在るのだから、これでやっていく。
タイトルの言葉。いい言葉だなあと思う。市の研修で聞いた。
結局、「授業化」という「カガクハンノウ」のようなものを、脳内でスパークさせることが我々の業務なのだと思う。
その授業化する上で、大前提として、「授業技術」があるのではないかと思う。もちろんなくても授業を回すことはできなくはない。45分等々の授業時間はどうしたって、終わりが来るわけだから。
それでも、技術があることで授業らしさは増す。ここは、どうやって教えるかの部分の一丁目一番地なのだろうと思う。
それこそが、「授業の腕を上げる法則」なのだろうなと思う。今週で原則8までを読んだ。このコツコツと長時間で積み重ねる戦略は大当たりで、力になっていると思うし、覚えられたのでよかった。
今日は、
第八条
確認の原則
「指導の途中で何度か達成率を確認せよ」
だった。
一昨日は、細分化。昨日は、空白禁止。
そして、今週になって当たり前のように、「終わったら何をするか」を指示の中に付け加えられるようになった。自分の中でとても嬉しいことである。
【国語】
・50音なぞり
3分間でどこまでいけるか、週に3回なぞった。
→自分の伸びに喜べる!
・教科書の題名の横に◯
一回音読したら◯を一つ赤鉛筆で塗る
題名を言ったらスタート
【算数】
・100玉そろばんで数える
→1つずつ100まで、2つずつ、5つずつ、10ずつ
これは、教科書を開くにしてもいる能力。おかげで、だんだん教科書を開くのも上手になってきたように思う。
・ブロックは使うだけ出させる
→その日10なら、10個だけ出させる
・終わったら「裏に100個◯を書きなさい」
→やることを準備できなかったときに熱中させられる
【学級指導】
・聴くための指導
→指導するための言葉だけではなく、自分の感度を育んで、よく気がついて指導するのに2年かかった
→「一度で聞く、質問は最後、悪いことは心の中で吐き出す」をお願いした。
・手は空っぽで、おへそを向ける
→言うとすぐできるようになってきて、うまくなってきた。いいこと教えてあげると言って、「人は手で何かを触っていると、どうしてか聞きにくくなってしまうから気をつけてね」と話した。
・挨拶を奪っておくこと
→こっちが授業スタートの権限をもっていた方がよい。
・姿勢も奪え
→「ぺったんぴんぐー」で指導している。字を書かせるときには、姿勢のいい子を必ず誉めたほうがよい。
・机の整頓をさせる
→授業前よくやった。今日はそれもよかったのかもしれない。あまりに大事なので、放課後に床にテープを貼った。
・「終わりと言ったら、終わり」
→ここまでで一番使っている言葉かもしれない。支援で培ったもの。よく入る言葉。切り替えが早くなる。
・発表の時は「顔をみんなに見せる」「聞こえたら拍手」にしておく
→スタートは喋れるだけでマシだろうから、これで練習を積むでいいと思う。
・終わったらやることを言え
→やっとできるようになってきました。
・「はい」一回の子だけ指せ
→うるさい
・挙手がいっぱいいて時間があるなら、全員立たせて順番に言わせる
→これ、本当に便利
・机の横にぶらさげる袋を用意しろ
→スッと折り紙を片付けられない子がいる。机の横にさげるメッシュ袋を100均で手に入れ、サッとしまってかけられるようにした。
【課題】
やめる力、はじめる力、つづきにする力
→あとは授業力をつけて、授業内の切り替えを上手にさせるしかないかな。
※当たり前のことなのだけれど、知っているではなくて、身に染み込んでいて、その指導ができるということがいかに大切か……。
週の真ん中で、くぼみができると、木曜日は一体どうなってしまうんだろう、なんて思うけれど、思ったよりよくて拍子抜けする。
そういうのの行ったり来たりなんだろうね。
やはり臆せず、歩んでいくことだね。今日は電話ラッシュでした。6件したかな。ただ、どのお家の方も友好的でありがたい。学校楽しいって言ってくれているとのこと。そのモノサシが崩れたら批判されるのかなあと思うと嫌だけれど、有り難い。一人でもそういう子がいるなら、あれやこれやと考えて施してよかった。幸い。
今日は、図工開きだった。昨年の反省から今年は図工を少しは学びたいと思っていて、結局何を大切にすればいいのかが知りたいと思った。それを体感する言葉をもっていないと思った。
とりあえず、教科書会社の冊子みたいなものを一通り見る。
どのナンバーも面白かった。その中でもこれだな、と見つけた言葉は、「いいな」だった。
図工は、自分が思いついた「いいな」や誰かの作品から見つけた「いいな」を使って、表現したいことを表現する教科なのだ。そのための、技能や構想する力が必要になってく。もっぱら、子どもたちには、経験が不足しているとされ、そうなると、どの色が好きとか、形が好みとか、その「感覚」自体にピンこないことも多々あるはずで、そうなると、自分のだけじゃなくて、とにかく何かを見て「いいな」って思えよ、と思い「いいな」を大切にすることにした。図工は子どもたちの「したい」や表現したい「思い」ありきの教科である。この先の図工がただのやらされる作業で、うまいかどうか、退屈じゃないかというモノサシではなく、「表現したいことを表現できるか」というモノサシで楽しんでもらうためにも、考えて自分なりの表現をついしたくなるような題材を考えて、実践できるといい。それは、「めあて」の示し方でも違ってくるだろうと思う。
たとえば「カタツムリさんの歩く道を描く」としたら、ただ描くのでは何も発想のしようがないわけで、「カタツムリさんのながーーーーいぼうけん描こう」としてみると、少しは線に意味が与えられ、画用紙の上はいくらか豊かになったように思う。なぜその色を選んだのか、なぜその付け足しをしたのか。聞いてみればきっとストーリーが出てくるのだと思う。それを聞いて歩く時間がないところが残念すぎる。いや、そうしなかっただけだな。次の図工では声をかけていこう。そうすると、私ももっと楽しいだろうと思うなあ。
今日の原則は
第七条
空白禁止の原則
「たとえ一人でも空白の時間を作るな」
苦手である。今日は、算数が素早く終わってしまった子に、「終わった子は、裏に100個◯を書きます」なんてことを言った。表よりも白熱していた。こういうのを、適宜思いつけたらどんなにいいだろうか。
追伸:昨日のミスは、リフレームによってミスでなくなった。子どもの懐の広さを思う。
恐らく、思いつきを入れるからだろうな。まだ、そういうことをできるほどの腕ではないのだ。気をつけよう。
ただ、よーくよくよく見ると、やっぱり、届いていないのは2割ほどであって、反対に8割よくやりすぎじゃないの?ってのもある。もう少し、穏便に寛容でいよう。
今日は、2:30に起きてしまって、朝10分間だけ走ってしまった。しかし、これをやると、シャワーとかも入れて大体30分なくなっちゃうのだなと分かった。なるほど、なかなか夕方も疲労感があるなあと思いながら……ただ、きちんとグッスリ寝てからなら大丈夫なのかもしれない。とも思いながら。いやでもよくないな、1ミスしてんだよな。やめようかな。迷う……。
今日の原則は、6つめ。
第六条
細分化の原則
「指導内容を細分化せよ」
というもの。UD学会で言うところの、「焦点化」に近い。焦点を絞って指導するためにも細分化がいる。
細分化して、焦点化することができていないから、ごちゃごちゃとする。
失敗を受け止めて。
明日から仕切り直そう……。
今日は、イレギュラーが多かったや。
何に注目するのか、何にコストをかけるかは重要である。
80:20の法則とは、「結果の80%は、たった20%の原因から生み出されている」という考え方です。代表的な例としては「売上の80%は、たった20%の顧客によってもたらされている」「世界の富の80%は、たった20%の富裕層が所有している」などが挙げられます。
80:20の法則を活用する3つの方法。仕事も勉強も効率が5倍に!? - STUDY HACKER|これからの学びを考える、勉強法のハッキングメディアより
良い方にも、悪い方にも2割りが存在すると考えると、亜種として、「2:6:2の法則」というのもある。
あまりそういう表現をしたくないけれど、クラスの中には、
が巣食っているというわけである。
ついAにコストをかけてしまいそうなのだけれど、Bにコストを割いた方がいいということになる。もちろんCにもコストをかけないとならない。崩壊はCから起こるとされる。
A的なCもいる。手がかかって、賢い子である。ここをどう手近に置いておくかが重要である。帰りの挨拶で、眼差しを向けて目を合わせるようにしている。
Aは、どちらかというと、授業中に注目せざるを得ない子たちだ。そして、その注目をCも欲しがることで、崩壊が進む。
今日を振り返りながら、明日はCの子たちにもっと注視した方がいいな、と思った。
かつ、不適切な行動に注目するのは、今週は避けようと思う。不適切な行動は100%パートタイムである。適切な行動をしている時を狙って声をかけることにする。
今日も良いと思える一日だった。子どもたちの反応が良い。手の施しがいがありだらけである。
退勤も早かった。やはり、勢いよく復習をしなければならないということが、残業を生み出していたかな。ペースダウンと慣れと共に、授業はやりやすくなるように思う。
忘れないようにメモをしておこう。
【国語】
ポイントとして、
【算数】
今日の法則は
第五条
所・時・物の原則
「子どもに活動させるためには、場所と時間と物を与えよ」
というものです。
盲点。甘い所だらけです。きちんと与えられるようにしたい。