かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

122|うまくなりたいことの練習

読み方の技能を育むなら、読み方の練習をするしかない。

 

というわけで、グループで音読の練習をさせてみる。いくら想像して、考えを書いて、知識として理解しても、できるかは別なんだよね。

 

たぶん、自分は考えたように音読できているわけではないと、初めて知ったのではないだろうか。

 

タブレットで撮って、見直してフィードバックした。教室に一台タブレットかあるだけでも少しだけ活動の幅が広がると思う最近。

121|水曜日は勝てない

そう思っていると幾分気が楽である。

 

ある日よくなったら、もうずっと改善されるかというとそういうわけではない。

 

学年のイライラ具合を感じる限り、どこも「もう!」となる時期なようである。それこそ、それでも、やんわりと乗り越えて行った方がよい。

 

何でもかんでもうまくいかせる時期は終わりを迎え、受け入れ態勢のようなものに入っていく時期なのかもしれない。

 

たとえば、「みんなの弟と思って」とか、「新しい弟ができたと思って」とか言って、多少のできなさを大目に見るポジションを仕向けてみたり。

 

「あの子ができないから悪い」ってのは、大人がラベリングしていくのだろうな、と改めて思う。だから気をつけてみる。

 

怠けではなく、課題なのだ。そして、「自分はなぜできないのか」と悩み始めもする。そして、どうしたものかと助けたらいいかなと思う。

 

ヘルプスキルでもいいし、可視化して分かりやすくでもいいし、何かその子にハマる手立てをそこから考えていこう。

 

「なぜ、やらないのか。」

「やれないから。」である。

「じゃあ、やれるようにしようぜ」というのが仕事。

 

やってあげる時期、指図する時期を越え、次に向かっていくんだろうな、と思う。

 

いろいろ大目に見ながらね。

席替えをしたり、やんわりとケアの空気を漂わせたりしながら、まあ、とりあえず「クラス」でこの船を漕いでいってみようという感じだ。

 

「よく見れていない」という内省ばかりなのだが、連絡をこまめにしていれば、それで本当によく見てくださってともなる。

 

言い訳せずにね。目をかけながら。

みんなを少しでも見ていきたい。

 

たぶん肝は、「見てほしい時に見る」ってことなんだろうな。

 

そして、手紙を送り合う実践も始める。

早速、一通来る。とても有り難い手紙だ。

大切にしなきゃなあ。彼らを。

 

手紙をもらった感想を聞いてみよう。

120|初めに言って言い続けること

昨日は授業面白かったなあと思った。

今日も面白かった。

 

面白いと思うことをできたからかもしれない。

 

生活科で、学校の「秋地図」を作った。

どこにどんな葉っぱや木の実が落ちているか分かって楽しい。

 

国語もよかった。気持ちから読みを考えて発表するよくあるやつだけど、面白かった。子どもたちはオーバーにやるのは恥ずかしいのだそう。

 

なんでか、授業で聴けること(静まること?)が増えて、昨日は偶然と思ったのだけれど、今日もそうだったから、もしかすると、何か変わったのかもしれないと思った。

 

先週末は「このまま毎日わーわーなってんのかな」と胸のざわつきがあったし、肩まで猛烈に痛くて立ち上がるのが辛いほどだった。

 

にもかかわらず、週明けの子どもたちは違っていた。

 

何かが閾値に達して、変化が起きたのかな。

「一度しか言わない」とか「聴くこと」とか初日からゴリ押ししてたからね。

 

去年も一昨年もそんなことを言っていたような気がする。ずっと最悪が続くわけではなく、反転があると。言い続けたことが発揮されるようになったり、思いや願いが届いて動きが変わったりということ。

 

いつも忘れてしまって、今年こそは無理だとか。ないとか。指導が至らなかったのだとか。苦しい気持ちでのたうち回る日々ばかりなのだけれど、反転はある(のかもしれない)。

 

そして、一つ思ったのは、やっぱり、荒んだ行動は、圧力から生まれるのかもなと思った。誰かを攻撃してしまうのは、ストレスなどの圧力によるものなのだろうな、と思うのだ。

 

やたらに「できていない」という状態のこと強く言ったり、怒鳴ったりせず、やり過ごしている。

 

すると、その子が誰かを攻撃することもないし、その子を攻撃することもないということだ。

 

学校の一番の弊害は、できないことを悪いと感じること。できない自分は悪い人間なのだと思うこと。自分はできない人間なのだとレッテルを貼ってしまうことだろうなと思う。

 

どれも「今、できない」だけなのに。

 

その「できない」を早いうちに貼りつけてしまった場合、なーんにもいいことがない。きつい。

 

いつの間にか、私が後退りするくらい優しい子がクラスに出来上がってきていて驚くのだ。そして、それは、たぶん、手前味噌だが、自分がそういう振る舞いだからなのだろうと少し思う。

 

119|しっとりと

今日はしっとりとした月曜日だった。

 

6:30から同僚と朝活?をしつつ、体育がいい感じに作用して、しっとりとした3、4Hになった。

 

こなすべきことをこなして、職場を後に出来たので気分が良い。大体こんな感じで毎日が終わればいいのにと思う。

 

ただし、こんな日は今年度初めてなので、そうないのだろうなあ。

 

仕事をした感。

仕事をできた感。

こういうのがほしい。

 

そして、やはり「問い」が大切なのだということが分かってきた。

 

「問い」がなければ「意見」もない。

「よい問い」がなければ、聴きたくなるような「よい意見」もないのだ。

 

「全員参加」と思って、「分かること」を聴きすぎていたのかもしれない。と振り返った。

 

面白い問いを考えてみたい。

伝わる・揺さぶる! 文章を書く (PHP新書)
 

 

子どもたちは、「触覚とはなんなのか?」にとても食らいついて、授業後も「触覚の話が面白かった」と言っていた。そういう、わくわくする問いについて考えてみたい昨今。

 

118|久々の一週間

毎日、学校に行ったね。

 

そりゃそうだけど。

 

わーわー描かせる系は、指導(制限)を入れないと、たちまちブラックホールが生まれてしまうので、気をつけないとなあ。ただ、日記を書かせて、何を描こうとしたか、考えていたかなんかが少しでも見えたのでよかった。

 

左上半身の調子が悪い気がする。肩こりというか。お風呂屋に行きたい気分だ。

117|夏なんかとっくに終わったんだろうな

今日は月見なの?よくわからんが。

 

うちの子はとっても笑顔です。

 

初めての夏だったわけだけど、特段なんも夏の思い出なんかなく終わったなあと急に思った。

 

月が見える。

 

団子は、職場でみたらしをもらった。

 

しんどいがあと1日。なんとかやっていこう。

116|学校は教えてはくれない

これまた、当たり前のことなのだけれど、「学校は自分が一番知りたいこと、本当に知りたいことは教えてくれない」って話だ。

 

そう思うと、子どもたちは別に知りたくもないことを垂れ流されて、「そういうことになっている」みたいなものによって、次々にインプットのパイプを埋められている。

 

そして、バケツもいっぱいになる。

 

パイプというよりは、時間かもしれない。時間が埋まる。スタミナも使う。だから、「自分から学ぶ」が起こらなくなるのではないだろうか。

 

学校の授業というのは、動く歩道みたいだ。1コマだって余裕がない。何をやるかが、ベルトコンベアのようにやってきて、与えられる。「もっと、虫を見たい」とかは、許されないのである。

 

「じゃあ、それは家でやろう」ってことになる。

「友だちと見たいんだけど!?」じゃあ、友だちを家に呼びなさい。

「いや、その子は学童で、私は自宅で」。

「そんなん、知るか!」と払い除けるわけだけど、そんなにコストをかけて調整する力までが、子どもにあるのだろうか。

 

どんな簡単なことでも、キャパオーバーすれば負担になるように。

 

平坦で、敵はクリボーしか出ない面でも、その圧倒的な量によっては、ミスることもあるだろう。

 

学校教育には、その圧倒的な量の勝手なインプットが溢れかえっているんじゃないかと思う。

 

まるで、自分なんて存在しないかのようだ。どんどん。やれやれやれやれ。どんどんどん。やれやれやれだ。

115|漂う

できていることもあれば、できていないこともある。

 

毎日そんなだね。

 

子どもたちなりに思い出を築いてもいるし、力をつけてもいる。けれど、もうちょっとってなる部分もあるし、それは違うんじゃない?ってのもある。

 

いつの間にか、枠組みの中での多様性が辛い。とすら感じるようになっていると最近思う。

 

それほどに、評価であったり、進度であったりは、大人を疲弊させる。全体で指導して追いつかない子は、「+1時間」がいる。「+1時間」に4、5人で見られるなら、まだ救える子がいるかもしれない。全体の中で、集中させて、理解させて、追いつかせるってのが大変だなあと思っている。

 

そして、ふと、自分がテストで100点だったことがあまりないことや、一番前の席に座っていたことがあったことを思い出した。

 

私はできなかったのだと思う。すごく集中してタイルを触っていたり、読んでいるけど読んでいなくて国語のテストはなかなか答えが当たらなかった。ほとんど聞いていなくて、テキトーやっていたのではないか、と思う。

 

危険だけれど、それでも、どこかで然るべき時に、納まるところに納まるっていうのがあるのかもしれない。大目に見てみること。

 

本当はちょっとしてあげてもいいのかもしれない。