かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

120|初めに言って言い続けること

昨日は授業面白かったなあと思った。

今日も面白かった。

 

面白いと思うことをできたからかもしれない。

 

生活科で、学校の「秋地図」を作った。

どこにどんな葉っぱや木の実が落ちているか分かって楽しい。

 

国語もよかった。気持ちから読みを考えて発表するよくあるやつだけど、面白かった。子どもたちはオーバーにやるのは恥ずかしいのだそう。

 

なんでか、授業で聴けること(静まること?)が増えて、昨日は偶然と思ったのだけれど、今日もそうだったから、もしかすると、何か変わったのかもしれないと思った。

 

先週末は「このまま毎日わーわーなってんのかな」と胸のざわつきがあったし、肩まで猛烈に痛くて立ち上がるのが辛いほどだった。

 

にもかかわらず、週明けの子どもたちは違っていた。

 

何かが閾値に達して、変化が起きたのかな。

「一度しか言わない」とか「聴くこと」とか初日からゴリ押ししてたからね。

 

去年も一昨年もそんなことを言っていたような気がする。ずっと最悪が続くわけではなく、反転があると。言い続けたことが発揮されるようになったり、思いや願いが届いて動きが変わったりということ。

 

いつも忘れてしまって、今年こそは無理だとか。ないとか。指導が至らなかったのだとか。苦しい気持ちでのたうち回る日々ばかりなのだけれど、反転はある(のかもしれない)。

 

そして、一つ思ったのは、やっぱり、荒んだ行動は、圧力から生まれるのかもなと思った。誰かを攻撃してしまうのは、ストレスなどの圧力によるものなのだろうな、と思うのだ。

 

やたらに「できていない」という状態のこと強く言ったり、怒鳴ったりせず、やり過ごしている。

 

すると、その子が誰かを攻撃することもないし、その子を攻撃することもないということだ。

 

学校の一番の弊害は、できないことを悪いと感じること。できない自分は悪い人間なのだと思うこと。自分はできない人間なのだとレッテルを貼ってしまうことだろうなと思う。

 

どれも「今、できない」だけなのに。

 

その「できない」を早いうちに貼りつけてしまった場合、なーんにもいいことがない。きつい。

 

いつの間にか、私が後退りするくらい優しい子がクラスに出来上がってきていて驚くのだ。そして、それは、たぶん、手前味噌だが、自分がそういう振る舞いだからなのだろうと少し思う。