ジャケットを脱げばジャケットを忘れてくる「ハピペン」です。もうどうする?この性格……。
つづき
本日の日程は「スタディツアー」ということで、「アジア学院」を見学させていだただきました。
アジア学院について
アジア学院は、1973年の創立以来アジア、アフリカ、太平洋諸国の農村地域から、その土地に根を張り、その土地の人々と共に働く“草の根”の農村指導者(Rural Leader)を学生として招き、栃木県西那須野のキャンパスにて、国籍、宗教、民族、習慣、価値観等の違いを認めつつ、公正で平和な社会実現のために、実践的な学びを行っている学校です。9ヶ月間の農村指導者養成の研修は、いのちを支える「たべもの」作りにこだわり、有機農業による自給自足を基本としています。学生たちは座学、ディスカッション、見学研修、グループ単位での農場運営を通して、自国のコミュニティの自立を導くリーダーシップを養います。
アジア学院では、研修を受ける金銭的な余裕のない草の根で働く人々に研修の機会を与えるため、海外からの学生渡航費、研修費をほぼ全額負担しています。そしてこのアジア学院の活動は、皆様のご厚意と寄付によって支えられています。
引用:
そして、以下が、「アジア学院」の志だと思う。
創立者高見敏弘は、常々アジア学院の働きは、人への投資であると語っていますが、40年の歴史の中で1200人以上の卒業生をこの学び舎から、アジア、アフリカを始め多くの国々へ送り出すことが出来たことを
感謝しています。草の根の現場にあって人々に仕えるリーダーの育成が、私たちの願いです。http://www.ari-edu.org/wp-content/uploads/2015/08/40-Shuunen-no-Ayumi.pdfより
ここでの、本日の学びを3つ紹介する。
1.「アジア学院」の使命
ここの右下に書いてあることが素敵でした。
使命
- 個々人が自己の潜在能力を最大限に発揮できるよう
- 公正且つ平和で健全な環境を持つ世界を構築する
- 共に分かち合う生き方を目指して、農村指導者の養成と訓練を行う
- アジア学院は、食べものといのちについての独自アプローチによって、我々自身と全世界に問いかけを続けていく
使命も勇気が沸いてくるような力強いもので、こうしたものを自分も掲げたいと思った。
教室の黒板の上にもシンプル且つ力強いヴィジョンが掲げられていて真似したくなる。
- That We May Live Together(共に生きるために)
- Life of Sharing(分かち合う生活・いのち)
- Diver sity(多様性)
※()内は「ハピペン」
「共に生きるために」ということで、1973年から掲げらている場所。
キリスト教の精神に基づいた教育の場だが、国も宗教もいろいろなで、本当に多種多様な人が学んでいる。
私は、こういう多様な空間は初めてかもしれない。
その多様性と共生の雰囲気がすごかった。わくわく・ドキドキの中に、安心もあるような感じがした。
教会で毎朝集いをするそうだが、祈り方はもちろん人それぞれで自由だそう。
2.「アジア学院」の「学び」で大切にされていること
これも「3つ」我々の学校現場でも忘れてはならないことがあった。
- 実践による学び
- コミュニティを基礎とした学び
- 仕える奉仕者
である。
これらは「自立」に向けて必要なことだと示されていた。
そして、この「自立」は、ただ「自立」といっても、社会的・経済的なというよりは、この地球上における「人間としての自立」と感じた。
90%を自給自足でまかなっている「アジア学院」だからこその「自立」という言葉の重みを感じた。「自分として『いのち』を楽しみ切る」というような、「自分」と「地球」とで存在を確かめ合うような「自立」を思い浮かべた。
3.「実践による学び」・「仕える奉仕者」
ここに通う生徒さんは、25から45歳。
「アジア学院」を紹介するの映像の中で南米の人へのインタビューを見て学んだこと。
実践による学び
自分の国では学ぶといったら講義なのに、「アジア学院」では実際にやって学ぶため驚いたと言っていた。
現実は講義ともっと違う。実際にやってみて分かることがあるといった話をしていたのが強く心に残った。
仕える奉仕者
自分の国ではリーダーといったら「命令者」だ、と話していた。しかし、ここで教わるリーダーシップは「奉仕者」だ、と。
その背景にはキリスト教の精神がある。納得できる素敵な考えで、リーダーに必要な考えだと思う。
以下は、朝の集いを行う教会の中。
このイスにその日の当番(日直)さんが座る。
あいさつや今日一日をどんな気持ちで過ごそうといった呼びかけを行う。
この順番も、生徒・スタッフ・ボランティアなど、かかわる人全員が含めて輪番というのが面白い。
そして、注目したいのは、この机とイスのある位置だ。
これは、あえて一番下なのだそうである。
ボトムアップ型のリーダーシップ、下から周囲の人々を支える精神を大切にするために、この位置だという。
こういう精神だとか、理念だとかをきちんと環境と結びつけて伝えていけることって大切だと思う。
もちろん押し付けるのではなく、こういう外での新しい価値観や優れた価値観、良いと思うものを子どもたちに提示し、その学級やコミュニティではどうありたいかを問いたい。
教育は通過点。もとい人生はすべて通過点である。学校は生涯の自己決定の場でない。していることは、その都度その都度の判断である。
やってみて違うと思えば修正すればよいだけの話である。
そのためには、子どもたちも参画者であっていつでも作り変えていけるような心持ちが必要だろう。
最後に、多田先生が言っていたことを一つ紹介して終わろうと思う。
多田先生は「理論と実践」を結びつけるような学びが大切だと何度もおっしゃっていた。その通りだと思う。この頃どこへ言ってもそういったことを聞く。気を付けたい。
そして、さらに、ここからが多田先生らしいし、そこが魅力的で、また自分につい至らなさを感じてしまう部分でもあるのだけれど。
理論は大事。それは否定しない。だけれども、すでに素晴らしい生き方・生き様をしている人はいくらでもいる。そういう人に会わないで、話を聞かないで、人間の教育ができるのか。と問うていた。
今回で、本格的に思い知ったように思う。
自分と紐づけて表現させてもらえるとしたら、それこそ「それでも幸せな人はいるから」ということだ。ならば、その人に話を聞いてみたらどうなのか、ということなのである。
人間の素晴らしさを知らないで、教育ができるのか?と問われているようにも思った。じゃあ、素晴らしい人間に会いに行けよ。そこから学んだことこそ人間の本当じゃないのか?と。
この辺りで今回の「感性」というテーマが、人間としての「在り方」「教育」「人生」「これからの社会」「未来」「生きる意味」など、すべてに結び付いてくることに衝撃がはしる。
私は、やはり「感性」というものについて考えたことがなかった。
感性の定義はいろいろあるのだが、自分なり考えると、少し短絡かもしれないが、
「感じることの性質」だと考えた。
この「感じることの性質」を幅の広さ、強さ、深さ、速さ、時間的な長さ、形、量など。いろいろな心の動きで多様な感じ方ができることが「感性」の豊かさというものなのだと思う。
そして、その高まった感性によって「相手」や「外界」これは「自然、物、人、事、釈迦い、地球、宇宙」など自分の外にあるものなんでもをどう受け取り、どう反応するのかを決めていくことにつながる。
さらに、たとえば、感性の豊かさには、その「反応」の選択も含まれるのが一般的なように思う。その反応が人の心を動かさなければ(実際にはそんなことはないのだが)感性が豊かではないと見られがちだと思うのだ。
その「反応」というものがどう捻出されるかといえば、それこそ、思考・判断であり、それがどう表現されるかまでの連なりが「反応」だと考える。
そして、その「思考・判断・表現」の基盤には誰もが知っているように「知識・技能」なども関係してくるだろう。
そして、感性が豊かであるということが、最終的にどこへ向かうかと言えば、外界の楽しみ方が拡大・増幅していくということである。
感性が豊かになるほど「自分のかけがえのない人生という体験を心の底から楽しめる判断基準が拡大・増幅する」ということである。
端的に言えば、学びはすべて「感性」を豊かにするためのものであり、その着地点を一言で言えば「体験を楽しむため」だと考える。
「すべての学びは己*1を楽しむための学び」なのである。
感謝を述べたくなるね。
この度は、こんな飛び入りの新参者でも歓迎し相手にしてくださった達人の先生方、大先輩方。またもてなしてくださった満寿家のスタッフの方々。
一生忘れたくない学び。そして、一生忘ることのできない思い出が一つできました。
本当にありがとうございました。
満寿家さん
共創型対話学習研究所
*1:己に降り注ぐの体験・環境・選択肢・判断の結果