かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

088|全力を出すとして

いよいよ休みが明ける。

 

本当にいろいろと悩むことが多い。

悩むということは、自分の中の考えでは解決できないということで、単に手を止めて悩むなら、悩まない方がよい。時間の無駄になる。

 

何に悩んでいるかといえば。

本当は別に悩んではいないのだけど、出してない宿題を、「ある」と認識されてしまうことについてである。

言った言わないなんてサイアク。と思いながら、でもなあ、連絡帳に書いているしなあ、それ以外に口頭で「ある」なんて、なかなかというか。書いてないんだから「ない」と言いたい。

 

ただね、そう思わせちゃったんだから仕方ないよなあと思いながら、じゃあ「ある」とか「ない」とか置いておいて、それをした方がいいのかを考えてもらうってことは難しいのかなと考えてみた。

 

別に私怒りませんし、単にその学習やった方がいいかってのは、先生しか考えられないことなのだろうか。

確かに、それを考えるのは大変に高度なことだと思う。塾なんて、そのペース配分と時間の確立にお金を払っているようなものだものね。要は、伴走と習慣づけに代金を払っているわけだ。どうしてかというと、それだけで、テストの点的なものは上がるのを見てきたからだ。塾に行っていなくても、一定の時間を習慣的に復習している子は、点数はよかった。学校の勉強ができるようになりたいっていうのは、それだけのことである。

 

話を戻すと、そのペースづくりは難しいわけだから、代金が発生するくらいに。

だから、宿題をすべきかも、給与をいただいている私が考えるべきなのだろうな、と思う。

義務教育における普通教育を全うするために。

 

それってなんやねんと、ふと疑問が湧き、検索してみる。

 

文科省でも議論されていた様子。

課程主義や修得主義の完全な実現は現実的には難しいが,むしろ現行の年齢主義・履修主義を前提としながら,修得主義的な指導を重視することが望ましいこと

(1)義務教育の目標を達成するための評価の在り方:文部科学省

の中段の下の辺り

 

この言葉の通りだろうなと思う。学習指導要領の目標達成、内容修得に向けて教師は日々仕事をしている。

修得に向かうと、宿題も大事になる。ただし、義務の範囲では「年齢主義・履修主義」ということだ。

 

そうなると、法律を越えての、私たち大人の協力的な営みが、修得に向けた学校外の学び、つまり宿題ということになる。

 

履修でいいのか、修得すべきと思うのか、その辺りは、子どももお家の方も当事者として考えてみてもらっても面白いかもしれない。どういうことかといえば、学校だけでは100%の修得を担えていないということだ。

 

履修主義であるから、修得させるには、+αがいる。その+αには、やっぱり学校外の学びがいるかな、と思う。個人的には、時間がない。修得させられる猶予がないと感じる。また、修得が全てではないし、履修であっても、幸せな大人になれなくもないはずである。

 

そうなってくるとまた、「じゃあ、そもそも義務教育ってなんやねん!」という気持ちになるが。

文科ではこんなことが話されている。

国家・社会の形成者として共通に求められる最低限の基盤的な資質の育成
国民の教育を受ける権利の最小限の社会的保障

2 義務教育の目的,目標:文部科学省

まあ、そらそうかなという感じで。

教育基本法にあるような、自立と社会の形成者として必要な資質や能力を育てますというのが主である。

 

そのためには、今のところは学習指導要領の履修がいるってことだと思う。

 

だけど、修得には、それ以上が必要なところがある。それが宿題である。

 

なんだか、結局、言いたいのは宿題を出されたとか出されてないとかではなく、修得に向けて、それぞれができることに取り組めたら素敵だねということが言いたかったんだ、たぶん。

たとえば、お家の人が本当に必要だと思うことは、学校では育みきらない可能性があるってことも知っていながら、子どもの未来のための力を育むための行動をしてもらってもいいよなと思う。学校の万能な雰囲気というか継承している文化の力や観念ってすごいなあと思うのだけれど、私たちは今や思った以上に法律の範囲で右往左往していて、その範囲で右往左往するしかなくもある。