台風でも電車が動いてればいいよ……うん。ってな感じの「ハピペン」です。
昨日は「ブリーフセラピスト養成講座」1日目でした。
一生使うであろう知識だと思ったので、真面目に学びにいってきました。
一日話を聞いていてもわくわくが消えない!
やっぱり好きな考え方なのだろうなと思いました。
ブリーフセラピーとは
問題の原因を個人病理に求めるのではなく、問題は他者との関係(相互作用)のなかで維持されているという見方のもと、コミュニケーションの変化を促して問題を解決していこうとする心理療法です。
個人の問題とされないところがいい!!
背景にある3つの理論
- システム理論
- 構成主義と社会構成主義
- コミュニケーションの理論(語用論)
背景に3つの理論があるということは知らなかったよ。
この3つがあると、個を集団や環境の中の個として見ることからブレなそうだね。
コミュニケーションの語用論も面白かった。
公理が5つあり、そのうちの「コミュニケーションの第3公理」が面白かった。
関係がどういう性質をもつかは、コミュニケーション当事者間のコミュニケーションの流れの区切り方(パンクチュエーション)で決まる。
というもの。
講義では「句読点で決まる」と表現されていた。
私は、この考え方は人生そのものだと思った。
人生の快も不快も最後まで分からない。
「長く生きると人生には良いことも悪いこともあったというよりは、ただ出来事があった。」という言葉を本で見てずっと覚えている。その通りなのだと思う。
一部分で切り取ってしまえば人生は意味合いが変わってしまう。
その刹那でコミュニケーションや時間を切り取って考えることで、苦しませてしまっている誰かがいるかもしれないのだ。
「区切り方で意味合いが変わる」子どもを見るときにも大切なことだろう。
講義の中で私が推している考え方も出て来た。
分からなかったら子どもに聞く。
この言葉は、実はブリーフセラピーの講習や本で見たものだったのかもしれない。
もう一つあって、私は「人は気持ちの良いことしかしない」というのも子どもを見るときに大切にしているが、それを表すような言葉も出て来た。
疾病利得。
"それ"(病気やよくない行い)をしていることで得られる利益があるということだ。
人がある状態でいたり、ある事をしたりするには、そこに本人なりに感じる良さ(快、利得、現状維持、他の手のよりは負担感が少ないなど)があるから、それが起こっているということだ。
ブリーフセラピーの基本哲学
1.Do different:MRI(Mental Research Institute)アプローチ
「偽解決行動の悪循環を見立て、新たな行動・対処パターンを創り出す"Do different介入"を行うアプローチ」。
ある問題を実際には解決できていない「偽解決」によって、利益を得ている比較的良い状態が少ない状態の「悪循環」からどう脱するか。
2.Do more:SFA(Solution Focused Approach)アプローチ
すでにある解決行動としての例外を探り、良循環を見立て、例外行動を広げていく"Do more介入"を行うアプローチ」。
悪循環の中の良い状態を「例外」として見つけて、「良循環」をどう拡張するか。
以上がブリーフセラピーの基本哲学である。
「誰がどのように困っているか」
講義を聞いていて「今、ここ」に注目する技法なのではないかと考えた。これもブリーフセラピーの良い部分だ。
「誰がどのようなことに困っているのか?」このフレーズが何度も繰り返された。
ブリーフセラピーは、困っていることを解決するために介入する。
めちゃあたり前だが、「困っている」から発進するというのは重要だ。
「後々、困りそうだから」という発進。フライングはしないのだ。
ということは、「困り」を引き出すための「質問」が重要になるのかもしれない。
そして、大きく反省したのだが、そのためには、パイプになっている人の記録が不可欠だ。関わる周囲の人たちの言質を取り続ける必要がある。
私が、関わったケースで大変だったことは何だったかを振り返ってみた。
それは「困っている人」が、登場人物の中でころころ変わることだった。
はじまりは「教師」だったと思う。そのとき、介入されるべきは教師だったのだ。
そして、そこから「教師が困っているから助けてほしい」という家庭への介入が必要だったと考えられる。
しかし、学校というのは恐ろしいところで「教師が困っている。困らせる子どもが悪い。だから家庭に協力してほしい」という角度で介入することがある。
そこから大きな軋轢が生まれる。
その学校不信スタートを改善するのにかなりごちゃついてしまったのだと思う。
上に書いた「ブリーフセラピーとは」にある
問題は他者との関係(相互作用)のなかで維持されているという見方のもと
というのが、本当に重要だと思う。
見方が固定出来ていなかったのだ。
その後、出来事に応じて「困っている人」が、その都度移っていく。「母親」「子ども」「また別の教師」「周りの子ども」「地域の人」「父親」「兄弟」「SC」「医療」「子ども家庭支援」など。
そして、その都度の「偽解決」が仮固定され、その場しのぎ的にはどんどん良くなっていたが、根本が改善されていかなかったように思う。
もうなんか、ライアーゲームみたいになってきているのだけど。
- 「一番困っているのは誰か?」
- 「どこから手をつけるか?」
- 「解決したと思える状態は何か?」
これらを上手に仮固定できていなかったのだと思う。そして、それを登場人物たちの中で共有しきれなかった。
特に表に出てこない登場人物もいたというのもある。それを引き出せなかったのも問題だった。
今、強く思える一つの結論
それは「困っている人を中心に考えるとコミュニティは優しくなる」ということ。
そのために、3つのポイントを考えてみた。
- 全体で困っていることを洗い出す。
- それらが「どういう状態」になっていると思えるか、現実的な解決のゴールを仮固定する。
- そして、これらは、すべて「子どもの最善の利益のために」という方針で話し合われ、解決の優先順位を見極めていく。
そうすれば、ズレなく介入を進めることができたのかもしれない。
結局、そこにいる「人・人びと」が困らないためにできることを見つける。
それだけでいい。
理論によって深く学ぶ体験をした1日目だったように思う。
他に検索によってこんなワードも知ることもできた。
サインズ オブ セイフティ アプローチ - Google 検索
(Signs of Safety Approach:世界最先端の児童虐待のケースワークの方法論らしい。)
専門知識がないと(あっても)難しいことへの取組だったのだと改めて思わされ……子どもを本当に救うには知識が必要だと実感させられる。
知りたいこと、知らなきゃいけないことは、まだまだあるのだ。