昨日の夜は調子こいてスタバで読書しようとしたら、急に眠くなって3ページしか読めませんでした「ハピペン」です。いやーコーヒーをこぼさなくて良かった。おかげで2時台に起きています。
ふと読もうとしている本を振り返った。「自尊感情」に紐づいていろいろ出てきてもいるし、全然違う本も読みたくなっている。
説明書……分厚いよ。
頭悪い人にとって目から鱗だらけの本。対となるようなもう一冊の中身は、そう感じないのだけれど、だからこそ、こっちは読まないと!と思った。
さて本題。
今日の6時間目に、あと一か月どんな気持ちで過ごそうか、というざっくりした質問をするシーンがあった(私ではなくて)。
その流れはさておき、その中で子どもから出た言葉に私の目指す子ども像にかするような言動があった。
序盤、楽しくやるとか、しっかりやると言ったざっくりした言葉が出てきた。教えてあげるとか、どうでもいいような言ってるだけのやつ。
そこから、二週間に一度クラス遊びをする、というのが出てきて、話題がそのためには低学年を思うという話になっていった。
そこで、4年がちゃんとしてほしい、というようなニュアンスで、低学年に
Aちゃんもずっと変なことしながら大人になるのはダメだよね
と言った。
どうとるか、真実は分からないけれど、私はAちゃんへの思いやりを感じた。
その子をただ許して受け入れるのではなくて、その子の未来を思って働きかけること。
それは無理矢理やらせるのではなくて、どうしたら気持ちよくできるだろう?というのが前提であって、そして、出来るようにならせたい。ちゃんと大人になれるようにしたいというもの(だと思う)。
注意に「何のために」注意するのかが、乗っかっているということだ。
うちのクラスには、他のクラスに派遣しても十分通用する支援者、教育者が醸成されてしまっていると思う。
Aちゃんもずっと変なことしながら大人になるのはダメだよね
この言葉に、心が反応するのは、「灰谷健次郎」の『わたしの出会った子どもたち』に出てくる子ども同士のやりとりに影響を受けてなのだけれど。
その中でも、しばらく付き合ったのち、その子が好きだからこそ、ちゃんとできるようにさせたい、一緒に大人になっていきたいというような話が出てくる。
(また、どこかで書こう)
子どもはたくましいなと思う。
あと4か月もあったら、ますますどんな風に成長させられるのだろう、と楽しみになる。チームとして強い学級だなと思う。自分たちで解決できることばかりになってきている。「みんな」を大切にしてくれている。
あとは出来ないことを責めないで、ちゃんと彼らのところまで下りて教えてくれる大人さえいれば、彼らは社会でやっていけるだろうな、と思う(賛否両論は構わない)。
他の先生方も、本当に心から子どもが大好きで、未来に責任を感じて幸せな大人になってほしいからこそ、そのために、子どもにはみんなの前で大声を出して指摘し、怖い顔でにらみ、給食はお昼休みの間ずっと食べさせ、できないとアホンダラ!と叫び、指導をして泣かしましたということをどや顔で報告しているのだ、と信じている。
私は、全くもってこれっぽっちも疑っていない。それで子どもたちは幸せになっていくに違いないから、それが起こっているのだ。