かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

いい歳して

バスタオルを忘れる「ハピペン」です。

優しさに寄りかかってんじゃねーよって話だ。誰かを支えようとしろよ!と。

 

すみません。

 

もう自分が歳を重ねて、周りからの見られ方が変わることに心が追いつかない。

 

特に初対面の大学生と会うと、確実に10個以上違うわけで苦しい。

最先端の若者たちに、今していること、感じていることの何を話しても、古いと感じられてしまっているように感じる。

 

じゃあ、学べよってことになる。

なんとかして土俵に立てよって思う。

 

ただ、もはや精神力がない。

自分をunlearnできない。

間違った電車を乗り換えられない。

 

気がする。

 

それは、24歳で路線変更した気になっているからで、本当はそこでやっと0だった。

そして、遅れているのだけれど(人生に遅すぎることはないとして)、今一度選択がいるのかもしれない。

 

たとえば、対症療法的に救うのではなく、やっぱり「権利ベースアプローチ」などで、仕組みに働きかけたい。そう考えられる人間になりたい。

 

直接できなくても、どこかを推して間接的に支援をしたい。

 

地域には素晴らしい団体がある。若者を孤立させない方法を編み出している人がいる。

 

こんな団体がどこの地域にもあったら、子どもは無条件に安心して地域で生活できるかもしれない。

 

とにかく、子どものために、子どもが生きやすい社会、システムを用意したい。

 

それが、学校じゃないの?って悶えているのだけど、悶え間違えているのかもしれない。

 

そして、180度以上間違った、戦略で好き勝手に読書なんかもして、結局なんにもならん。そんなことが起こっている。と思うと焦る。

 

求められているのは、もっとセクシーで効果があってスピード感のある変化を起こす行動ってことだ。

 

切り傷を治すのに湿潤法がいいと言われているが、今欲しいのはマキロンとばんそうこうなのかもしれない。

 

なんでもいいから、とっとと安心できることして、みたいな。

 

遠回りの本物とかいいから!みたいな。

短距離で効果のあることしてよ!と。

 

ただ「行動変容主義」でも違う。

 

なんだろ?

来年度を前にいい感じにモヤモヤして来た。

 

ここに一つの答えがあるかもしれない。

なぜエピソード記述なのか: 「接面」の心理学のために

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