かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「まあ、とにかく、真面目に一生懸命働く。」

珍しく、休日を親と過ごしたハピペンです。

一生の中で親戚も交えて初めての食事の席が実現する。偶然の人生のいたずらの面白さが、自然で、日常的で、良い生き心地を与える。

 

今日は、朝も120%な人に会ったし、のほほんと人に会う幸せを感じられた日だなあ。

 

私は、父との関係はよくない。

故に、人の見方、考え方がほんの少しいろいろな人とズレがあると思う。

しかし、私はこの境遇にカリスマティックを感じているのかもしれない。

虐待(?)されていたという、傷を抱いている自分を嫌いになれないでいる。

 

そして、人々の力によって、生き抜くことができた先に、「人生いろいろ」で、落ち込んだ時があったとしても、「まあ、とにかく、真面目に一生懸命働く」ことで、着地(不時着な可能性もある)することができるということだった。by父

 

生き続けなければ見えない答えがある。

生き続けることで見える答えがある。

 

「人は生き続けていさえすれば、かならず幸せにたどり着いてしまう生き物」であることの証明終了に近づく。

 

 

「もうこれで話してないことはない。」

と言い、

 

「明日死んでもいい。」

と言い、

 

「お墓のこととか血とか、全然気にしないから」と言う。

 

そして「好きにやらせてもらったと思う。幸せ。」だそうだ。

 

こちらとしては「じゃあ、まあ。もう。いっか。」って気も起こる。

 

そんなこんなで、父と母の馴れ初めを聞かされたり、すまなかったと言われたりもした。

 

 

ああ、いわば、総集編か。

なんて思った。

 

 

いろいろな人々の人生の総集編が近づいているのかもしれない。

総集編が終われば、物語は終わるか、次の章へ進むかだ。

 

きょうだいも明るく幸せそうに生きていた。

 

地元の和菓子屋が「61年と5ヶ月の長きに渡り……」と幕を閉じていた。

 

何年続こうが、閉じる時に幕は閉じる。

 

やがて、閉じる。

 

父もまた、ただ、幸せに生きたかった人間の一人でしかない。

 

「まあ、とにかく、真面目に一生懸命働く。」

 

はじめて、父に教わったことなように思う。

 

時代錯誤も甚だしい。

自分とは優先順位の考え方が違う。

など。

いろいろ思う……が、誰に教わったか知らんが、それを大切だと思い、実際に続けた姿は、尊敬できるところ……と言わざるを得ない。

 

その代償も小さくはないと思うが、私は歴史性の中にいる一人として位置づけられ、父に肩を叩かれたこの命をまた今日から生きていくのだと思う。

 

父の言葉など何一つも残っていない。

今日初めて。生まれて初めて、父から正しい言葉を聞いたように感じる。

 

こういうのを、結局ネガティブに捉えられないところがとても悔しくもあり、苦しくもあり、カタルシスでもある。

 

父は父なりの方程式で自分の人生を正当化し、方向付けていかなければならなかったのだと考える。