かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

節操がないのは何のせいなのか

私が始発で仕事場に行かないせいで、ドタバタしてしまっている。のだと思う。苦しいかな。

 

去り際がドタドタになってしまうこと。

 

まあ会うかもしれないと信じながら、お別れをする。バイバイバイと。

そんなにお別れがしたいなら、前もってしておけばよかっただけのこと。

 

これと同じことだろうと思う。

そうは言っても、そうはいかなかったりもする。ドタバタは私の性ってことで許されるだろうか。

 

【6年での反省】
一番の課題、ゴールをイメージできていなかった
一回やっていないから、「こんなもんだ」がなかった
比較対象がなかった。「あれ以上」も、「せめてここまで」もなかった
 
とにかく、本来的な彼らを表出させられていなかった
つまり、不安を取り除けていなかった
だから、力がついたのか見取りきれなかった
ただし、そのわずかに表出する自己を見取り、個人内評価を示すことはできた
しかし、もっと「人を好きにさせること」は、できただろうと思う
そのためには、「もっともっと人の良さ・素晴らしさ・素敵さ、人生の美しさ・尊さ・歓び」を伝えられたらよかったと思う。感動や心を動かされる物語や体験が必要だった。それと自分を重ねられるような諸能力を身につけさせる必要があった。たとえば、想像力であったり、言語能力であったり。「インプット→思考・処理→アウトプット」にまつわる言語能力を鍛えることが必要だった。本気で生きるというようなことも関わってくるかもしれない。そういう意味で、自分の中にある「本気をだせなかったな」とか、「本気になれなかったなあ」とかというのは、常々あった。そうした、自分をモチベートできない中でどうやって自分をモチベートしていくかというのは、至極重要である。場合によっては、人生という長い時間の中で家族の状況による積極的な家庭への傾倒があったり、児童と向き合えないことによる逃避的な家庭への傾倒があるのかもしれない。今のところの私の最低限の仕事ぶりは、「そこに居る」ということである。毎年それを最低ラインにしようと思う。そして、その最低な仕事をしたのが2019年度だったと位置づける。それは大いに環境因によるもので、自分の中では、当然に子どものせいでもなければ、自分のせいでもない。カリスマティックでなかったという点では、全面的に自分のせいであるが、非人間的な人に苛まれたという点では、どうにもこうにも抗いようがなかった。覆しきれなかった。よくがんばったと、自分では思う。