かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

必然ではなく

「幸せすぎると不安になる」って表現。聞くたびに、何言ってんだコイツって思っていたけど、これは、不幸せな自分への言い訳と、無意識に作られてしまったメンタルモデルなんだな、と理解する。

 

私も似たようなことを思う。子どもがうちに来て幸せだなあと思う。ただ、これは続かないのだろうなあと自然と考えてしまう。そう思っているといつか痛い目を見るかもしれない。慎ましく生きていなければ。みたいな。

 

そうでないことを証明してみてもいい。やがて仕事に追われて苦しむのかもしれないが、子ども(以下、ピヨ子)がいる幸せを毎日感じて、幸せはいつもあるものだと証明したい。そんな親バカ気分でいる。

 

昨日は、お昼は、oxfamメンバーの二人と話す。夜は、元ブログ仲間の二人と話す。初めてピヨ子と離れる時間だった。途中、会いたいなあなんてのはなかったけど、帰り道はピヨ子がいる家に帰る嬉しさを感じた。

 

どちらの時間も、おしゃべりが楽しい。oxfamの人たちは、いつもこの社会の中で生きづらい人をなんとか生きやすくできないかを考えている。マイノリティに優しい。かといって、偏りすぎず、みんなで次のコミュニティをクリエイトできないか、というような考えも話される。10個も歳が違うけど、本当にしっかりした人たちだ。「マイクロアグレッシブ」という新しい言葉を教わった。

 

夜は、今年度のおしゃべりの総決算だった。不覚にも、後半眠気に気がつかないほど落ちて寝てしまったのだけど、何を話したかのすべては覚えていないとしても、一緒にいたこと一生忘れない。忘れられない。そういう時間にいられてよかった。こっちは、端から見ると、内省マニアの会みたいな感じだろうな。過剰メタ的でもある。ただ、そうして、自分を探究する時期で、それが楽しい時期でもあるのだと思う。完全変態は、わずかな細胞の変化から起こるという、それを体験しているようにも思う。ただ解決したいのではないところに愛おしさがある。もし解決したいだけならば、気にしないでみること、それだけでいいこともあるから。

 

 

子育ては、ボランティア

これが、学校でも発動しているのかな、と思う。したくなってしまって、してしまって、やらされるのではなく、必然だからというのでもなく、気づいたらやってしまうのだ。ボランティア 。

 

ただ、学校は仕事やね。多少の割り切りがいるのかもしれない。自分の子どもと学校の子どもにかけるコストは、同じところから捻出されている。ほぼ、ほぼ、時間ってことだけれど、学校の子どもに時間を割きすぎれば、自分の子どもへのボランティア度は減るみたいな。作業化するというか。だから、時間配分、時間への意識が重要になるなあと思う。追われずに、したいからする心地よい加減で向き合えるといいな。

 

oxfamで、地域コミュニティで、経済を回すという話が出た。あちこちで聞くような気がする。人口減少デザイン社会などの仮説もある。いろいろな人が、よりよい在り方を模索している。「在り方戦国時代」だ。その在り方のために、エネルギーが課題になるところもある。ある場所にいるために、移動というエネルギーがいる。そこに課題があるという話もあった。私たちのしていることが、誰かや何かの淘汰や分離ではなく、最適化であるといいな、と思う。

あと、会社での仕事と個人での受注との両立ができると働きやすいという話も出た。憧れるというか、子どもとの時間をバランスよく取れそうだなあと思う。非常勤と自分の強みを生かす仕事みたいなのはあり得るだろうか。

人口減少社会のデザイン

人口減少社会のデザイン

  • 作者:広井 良典
  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2019/09/20
  • メディア: 単行本
 

 

そして、お祝いをいただきもしました。ピヨ子は、皆様のおかげで、既に幸せな人生をスタートさせていただいておりますm(_ _)m