クーラのない部屋でどうすごすか。。。干からびておくかな。。。ハピペンです。
昨夜は、尾木ママと木村先生の対談を聞きに行ってきました。
尾木直樹・木村泰子「日本の公教育を考える Vol2」 2018年6月30日 - SENSEI PORTAL
よくよく考えると収容200人というお二人を大変身近に感じられるキャパで、もっといろいろ準備して行けばよかったと後悔。。。
特に、ずっと憧れていた尾木ママとは、初接触でしたから、悔やまれる。握手をしてみたかった。。。
どういう温もりの方なのだろうと。
ノートにメモをしながら聞いていたのだけれど、一番初めの左上に書いた言葉は「眼差し」だった。
「いいから子どもを見ろ」
これは、いつかの私の口癖だった。
今回の対談の中で終始一貫していたのは「みる」ということだった。
見るというよりは、観るかもしれないし、診るかもしれない。おそらく「診る」は、違うというおっしゃるだろう。。。
最後の最後にノートに書いたメモも「子どもを見てたら」とある。
「大人は本当にほめてほしいときにほめてくれない」という文脈で、
「子どもを見てたら、本当にほめてほしいときが分かる。」
とにかく子どもを見ること、と木村先生が言っていた。
一貫している。
「子どもを見る」ということ。
今の私はうまくできていない。
2個の目に対して人数が多すぎるのかもしれない。
だから、大空小学校(みんなの学校の舞台、以下、大空)では、地域や保護者の大人をわんさか入れている。
眼差しといえば、佐々木正美先生も思い出される。
今日から大切にしようと思うキーワードにする。
「まなざし」
自分を省みると、言葉が先行しすぎるのかもしれないと思った。
まず、見る、見つめる、眼差しを送る。語り過ぎない。温かな目で、見つめることができているのか、問いたいと思った。
しばらく「感情のコントロール」を語っているけれど、その感情から出る言葉について気にしているけれど、そこに加えて「まなざし」にも感情を乗せられるのだという意識をしよう。
「ふつう」とは?
これまた、冒頭で、尾木ママも木村先生も「ふつう」という「言葉が使えない体になってきた」という話をしていた。
木村先生が、腕に切り傷のある女の子に「ふつうって何ですか?」と聞かれたことがあると言っていた。
その子は「この言葉のせいで生きてはいけないと思った」と言っていたそうだ。
小・中が、「ふつう」という言葉を持ち出し過ぎている傾向にあるとおも言っていた。
そうだと思う。
丁度、今朝、「ふつう」について考えを巡らしていたので、これも心にヒットした。
普通ってのはなく
— なっさん(ハピペン) (@kn_penguin) 2018年6月29日
それにもかかわらず「ふつう」は作り出されていて
そうなると、「ふつう」に見られることが生きづらさということもあるのかもしれない
ふつうな人などいない
誰にも生きづらさはある
「ふつう」に見えれば幸福ってことは
ない
ヽ(・∀・)ノ
— なっさん(ハピペン) (@kn_penguin) 2018年6月29日
このサイトを見ていて、どこからがスポットの当たる生きづらさで、どこからはスポットの当たらない生きづらさなんだろう。
と考えていたのです。
そして、スポットの当たらない生きづらさを抱えている人の生きづらさってどこに向かうのだろうって。https://t.co/iYhljAtNRI
ちょっと不謹慎かもしれませんね。
— なっさん(ハピペン) (@kn_penguin) 2018年6月29日
この記事も浮かびました。https://t.co/lxJnjOI3pe
朝言ったことは、こういう話に近い。 https://t.co/AQX4vSWQlQ
— なっさん(ハピペン) (@kn_penguin) 2018年6月30日
「ふつう」トークから、「あいさつ」の話になった。
「あいさつ運動って嫌い!」と尾木ママと木村先生が意気投合。
「あいさつ活動」なら分かると。
そして、「あいさつ運動」をしている地域は、子どもが見えなくなるという話も出た。
あいさつをして元気に返す子もいれば、睨み返す子もいる、さらに言えば反応しない子もいる。
「いろんな子がいる。これまであいさつされたことがなかった子もいて、どう反応したらいいか分からない。そういう子がいる。それがパブリック。義務教育。睨んできたとしても、反応してたらツカミはOK!(笑)」と木村先生。
やり方はない「子どもから学ぶ」だけ
教師の志として「子どもと共に学んで」とよく使われることがある。
個人的に違和感のある言葉で、いつも「何を?」ってツッコミたくなる。
あいさつ運動しかり、子どもを形にハメて「ミセモン」にしたときに、崩れ落ちていくものがある。
人間を人間でないもにツクリカエテしまっているという感じだ。
大空では「ミセモンのすべてを遮断した」とのこと。
もっと学校を血の通った場所にしていくこと。
そのヒントが「一番しんどい子を助けよう」というスローガンだと思った。
既存の枠から、はみ出ていい。
子どもが苦しい、それは、みんなの失敗。だから、みんなやり直しをさせてもらう。
大空たった一つのお約束「自分がされて嫌なことは人にはしない」である。
大人も大失敗をする。「これは!」と思った出来事を教材化して熱弁する。クライマックスで、子どもが突然立ち上がり「校長先生お話終わり!」と叫んだそうだ。
「この失敗から何を学ぶん?」と、先生たちでミーティングをしたそうだ。
大人が変わらなきゃいけない。と。
「ああ、これだな」と思った。
「子どもと共に学ぶ」というよりは「常時、大人が学ばせてもらう」、こっちの方がリアルだと思った。
大空には「やり方」はない。すべて「子どもから学ぶ」だけ。という話はとてもしっくり来た。
特別の教科「道徳」の話
「道徳の時間を受けたことがない人!」という質問から始まった。
一定数いる。私立なんかだと道徳の時間はないことが多い。
尾木ママは、法政大学で道徳教育研究の講座をもっていたそうで、講座をはじめる前に学生に、道徳を受けたことがある人、ない人と聞いて、ない人の顔を見渡してもらいこう聞いたそうだ。
「不道徳そうな人いた?」
(笑)
「いないよね。だから道徳やってないからって、不道徳って話ではないの。」
という問題提起をしてから講座に入っていったそうだ。
「あいさつ」の「語先後礼」の教え込みを礼に、体と心の分離の懸念についても話していた。
大空のリーダーの条件
6年になるとみんなリーダーになれることを目指しているとのこと。
そういう6年間を通じた、ゴールの提示って超重要なのになかなかない。
それをはっきりと示せるのは、教師間の対話が多いからなんだろうなあ。
本気で子どもを見ようって志が一致しているのだと思う。
【条件】
- 先生に頼らない
- 嫌なしんどい仕事は自分でする
- 文句を意見にする力をつける
この3つだそう。
「全ての子のリーダーは、全ての大人。みなさんできてますか?!」
と言われた(笑)
「一人の大人としてどう社会をつくってるか?」
重い問いだった。
何かをやっているとして「じゃあ、それ本当にやってるってことになるのか」は、永遠に分からない。
その中で何を選んでいるのか、しぐさ、態度、言動すべて。
尾木ママも木村先生も見ていると、話を聞いていると、自分が人間で在りたくなってくる。
その憧れを抱かせられる何かがある人こそ「先生」だなって思った。
自分を見つめるのが本当に苦しい。
先生に言われたからやる。それは、不道徳だ。とも話していて、納得した。
リーダー=良い子ではない。
大空も、一人ひとりが主体性をもってつくる学校。
「文句は意見に。」それが地域を変えて、国をも変える。
「それをやって子どもが幸せになるならやればいい!!」
金言。
そう思っていないなら、やっちゃダメだ。
たとえば、それが今の幸せにならないということもある。
ならば、未来のどんな幸せにつながるのかちゃんと語らなきゃダメだ。
胸に刺さる。
最後に、
「子どもからの学びのプロに早く変身せな」
と激励があった。
「子どもを見てたらいい。営利目的でほめない(笑)」
明日からが変わる対談だった。
当たり前で忘れがちなことを、言語化して見える化してださる対談だった。
明日はちゃんと「子どもを見られる」と強く思う。
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