もう二度と21時以降に焼肉を食べません。ハピペンです。もうダメだ。完全にダメだわ。朝から胸が熱いもんね。あーあ。
sns相談員養成研修
sns相談員の研修に行きました。
たまのメール相談員をやっていたのだけれども、メールでブリーフセラピーが使いにくいと感じていて(質問と回答の往還に時差がありすぎてしまう)、チャットだとどうなるかを感じたかった。
結論から言うと「あり」だと感じた。
そして、やはり、知らないことを知るのは楽しい。LINEなどのやり取りの中でどうやって短時間で信頼関係を築くのか。文字を送る量感。文字以外の情報がない中でどう気持ちを感じ取るか、伝えるか。面白かった。
鍵は「調子を合わせる」ということ。
これは、奥が深いことだと思う。
できていると思うほど、できていないことが浮き彫りになるような、常に「できた」がないと思うことで「できる」と言えるような、パラドクスがある。
ロールプレイでは、解決志向的な応答をほめていただいた。「やはり、何かを学ばれていますか?」と聞かれた。きちんと、そっち方面寄りの何かを感じてもらえるようなカウンセリングの流れを作れていたのだと思って相当嬉しかった(自信も経験もない中で生業にしている人たちとやってもいたので)。
ブリーフを意識して、悩みや問題に言葉をかけることができるようになって(多少は)いるようで、学んだかいがある。本当に。
こうして、
好き勝手に
気ままに
掛け合わせて、
いった先に
自分ができることがあるように思えて面白い。
つながり回想
ふとここまでのいろいろな「つながり」が頭の中でつながった。
出会ってきた人たちからの影響による、ここ数年のストーリー。
頭の中が出したがっているものを書いていく。
(読みたい人のみ読まれてください。ぐだぐだと経緯を語るだけです。)
急に深い振り返りができて驚く。
それは、生き続けることだ。
そして、どこかにたどり着くということ。
sns相談員(アクション)が刺激になって、はじまるストーリーがある。
流れは
- 自己不在(何のために生まれて何をして生きるのか?)
- 「キャラ」への関心
- 土井隆義さん
- 異動・DAFL
- ブリーフ・セラピー
- ソーシャル・レジスタンス(笑)
- 自尊感情(論文を読むということ)
- インクルーシブ経由のブログでの出会い
- 映画
- アノニマス
今思うと、すごいわ。
ものすごい出会いの連鎖が起こっている。
なんで複雑な着地の仕方をしているのだろう。
そして、私は、ずっと、そこに着地したかった。
それは、自分では分からなかったのだけれど。
もはや、複雑骨折的な状態で不時着したイメージで。
でも、本当にそこに着地したかったから、どんなに傷だらけでも、そこにたどり着けたことが、嬉しくて、心地よくて、生きていたかいがあって、これからも生きたくなるような。
複雑骨折だから、命は残っていて、呼吸を続けたいと思える場所。
そこにいくために、いくつもの遠回りをしてきた。でも、それで良かったし、それが良かった。道中で出会えた人、見つけたものが宝物すぎて、反対に、着地しないで、傷だらけになってきて良かったと思う。それこそ、傷があることに気づけていなかったわけだ。そう。そういえば、そもそも傷ということになったのも、2017年の5月だった。それも、社会学経由だった。ゲンロンが流行って、そのつながりで「勉強の哲学」を買った。
どうも、一年間の中で、度々「自己不在感」を感じるようだった。自分がいない。いてもいなくてもいいような感じがする。ここにいない。笑っても笑っていない。楽しくても楽しくない。悲しくても悲しくない。そういときがあって怖かった。なんとも思わない。思えない。「本当は?」が見えない。我慢と思わないで我慢ができてしまう。
その自分のなさに、荒れた6年生たちと自分の姿を重ねた。周囲の反応にしか関心のない彼らを見て、自分はどこにいる、本当にそう在りたいのか。そこにその人は「在るのか」。そんなことが気になって「キャラ」という言葉が目につくようになった。
無責任だからこそ、自発的になれる。真の主体性。自分を感じられる場で、大好物である。他人に気負わず、無責任でいい場なんて最高ではないだろうか。もちろん害していいといういみではないよ。
そして、それは、体験・経験を転移できる時に起こる。
そういう脳ができる。そういう癖ができる。
死にたさと生きたさの歴史
歴史をもう少し振り返るともう少し前もつながる。
死にたさ→3歳の自己を思い返す(アヒル公園などなど)→生きづらさ・自信のなさ・依存的なこと・自尊感情・共依存的な生き様→自分しかいないこと→他者性の欠如(学童で感じる)→みんなを想起する(共同体かつ実態のない概念を大切にしてゆく。その想像が他者意識につながる。共感・道徳性・向社会行動のつらなり)→過度な自己犠牲・自己への客観的考察のなさ(価値観のなさ)・今を生きることに埋没する・これは自分か?への問い・こんな地球に乗った覚えはないへ・「つらい」と言えたこと・m本先生やt代先生との出会い(そこにはm先生やaっちの生き様が関係する)→社会的責任の欠如(自己の他者性のなさ)→公と私の間へ(どこかでアドラーにも触れている「貢献感」など)→キャラへの意識(6年たちを見て)→【上の項目へ】
流れていってしまう日常の中で、気にしないでも時間をやり過ごすことができる。
それに慣れていくうちに、人は自分でないものになれてしまう。
パターン化された自分。パターン化された自分でない自分へ。
しかし、生きづらさがあるのなら、語ることが大切だ。物語を語ることが大切だ。
そして、書き換えのコツは【「本当は」を語ること】。
すべての人生は、編集され、再構築され形作られている。
私の場合、それは、群青劇的である。
それぞれの時系列が未来にエネルギを与え続けて、一つの場面絵になる。(dvdのチャプターに似ている。)
意味は常につながっておらず、断続的で、ある出来事とつながって意味をもてる。
意味をもつことが「生」である。
「思い出の答え合わせ」「エピソード記述」「価値のなさ」
ストーリーのパターンを知りたいな。
群青劇的な。そして、新たな形式を生み出せたら驚く。
否定しないからいつでも来いよ、そういう居心地だったろう?
あなたは、あなたでいいのさってね。
病みつきでいい。また来たくなったらおいでよ。