かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

180日目:正常な感覚はどこへ?

子どもたちがシステムだからと言って、委員会や掃除や給食当番で働くのが普通って感覚は大事だろうか。もし、最高学年がイマイチだとしたら、チンタラしているとしたら、それは、やっぱり彼らをモチベートできなかったってことじゃないだろうか。

 

子どもを動かすには、心根からの優しさと時折の怒りがいるだろうか。

 

たまに「こっちも遅くまで努力して残って用意してる。その気持ちを分かれ。ぶざけるな!」みたいな人もいる。個人的にその人は嫌いじゃないのだけれど、それが通るのはなんだろうとなる。

 

子どもたちは、私のヘルプに反応する。私が困らないように、悲しくないようにしようとする。結局そうなのだろうか。

少しそっちにシフトしそうな気持ちがある。あなたが悲しまないように。あの日つながったあなたが悲しまないように、人は軌道修正することしかできないんじゃないだろうか。結局、能力が身につくというよりは、あの日のあなたが胸の中にいることの方が大切なのではないか。

となると、残るのは6年ばっかりで、他の教育活動はモブか、というとそういうわけではないし、なんとも言えない。

つまり、言いたいのは、やはり、モチベートするのは、学校ということである。

学校がそれなりに、各学年の役割を、学習指導要領のように、低中高のブロックによって、単語一つ変えるだけでよいいから、役割を意識できていると強いと思う。それは「押し付けではなくて憧れ」であってほしい。

 

ハピペンなりに考えてみるか。

 

ハピペンの1〜6年観

たとえば

  • 6年は「学校をつくっていく人」。1から6が、特には1から5が学校が楽しいと思えるように、工夫改善しようとして、意見が言えて実際に変えられる学年であってほしい。そのためには、規模にもよるけれど、縦割りの活動や、きょうだい学年との交流。委員会の日常的な学校づくりへのかかわりなんかがいると思う。やりたいことを発信して楽しめる学年。学校から地域そのものをつくっていこうとするような学年であってほしい。1から5の憧れである。
  • 5年は「学校をつくっていく人」を真似ぶ存在である。いわゆる「高学年としての自覚をもち」というやつで、広範な目で学校を見る練習をしていってほしい。それなりに任せる体験をさせ、権限を持たせたい。思いつきが適うと同時に失敗する経験をさせたい。1から4に憧れられるような振る舞いについて考え続ける一年。また6年に負けないぞ!という自己有能感もほしい。
  • 4年は「学校を支える人」。中学年は学校の首である。高学年は学校の顔。いわゆる「二つに分けたら高学年」という煽りを受けて、正しいと思うことを自分から選んで行える存在であってほしい。力を合わせる楽しさも知ってほしい。抽象的な思考ができるようになり、自分というものも見え始めたからこそ、自分と他者を受け入れることを楽しみ始める最初の一歩の時期。いろいろなことを体験して学んで、自分の楽しいをつかんでいってほしい。その体験が高学年でいきてくるはずである。もっと学校がこうだったらいいのにとい願いをもつための時間としよう。
  • 3年は「学校を楽しむ人」。個人的には3年が一番学校に慣れた頃かつ、新しいことも入ってきて、学校初段的な印象がある。習字、リコーダー、理科、社会などが、はじまって、むしろここからが本番という感じかもしれない。多少お兄さんお姉さんであったほしい。1年や2年とは比べ物にならないほど、運動も学習も背伸びして頑張ってという感じ。しかし、つまずくと一気に差が開く頃でもあると思う。漢字、割り算など、新しい学習に耐えられるかは、2年生までの経験次第だ。
  • 2年は「学校の習慣を身につける人」。1年の時と比べて、あーだこーだがあると思うが、1年で積み上げた大切なことを、そのまま持続しながら、よりよい習慣を身につけていってほしい。しかし、身につけるとは甚だ疑問で、どうしたら身につけたということになるのか、問いたい。たとえば35人学級で35人全員宿題を提出する仕組みを作れたのならそれを引き継いで継続したいところだ。そういう連携何もなしで、習慣も何もない。そうなると、放り込むしかない。無秩序の中でも秩序を発揮してもらう方に場を設定したくなる。そんな中で、出させるへの違和感が生まれる。反対に2年目で比較対象が1年生の時しかないため「学校ってこういうところ」というのが少し揺らぐ時期。自分はさておき、やらされるクラスもあれば、自ら考えて行動せよ!というクラスもある。何を継続するのか学年で揃えたいところ。何か新しいことをはじめる際に「6年続けられないものはやらない」という基準を聞いたことがあって素晴らしいと思ったけれど、そういうチームワークのある組織は憧れを生み出せそうだ。
  • 1年は「学校の好きなところを見つける人」。ワクワク待ち望んだ小学校で、2から6のお兄さんお姉さんたちに歓迎されて、学校っていいところだなあと思ってもらう時期。その憧れに向かって授業を受ける力などもモチベートしていく。やっぱり、もはや「学校はそういうところだから」というのだけでは機能していかないんじゃないだろうか。そうだとしても、「いや、でも、学校ってこういうところなんで」というのがあるとすれば、学校や学年で少し型を教えてほしい。たとえば、まず「しっかり従わせること」、そして「作業させること」、それと「記憶させること」。この従来型の教授さえしていればよいということ。さらには、そのためには怒号も飛び交う、ノルアドレナリン万歳!な指導法で子どもは幸せだとどうしても思えない。圧をどうしても減らしたくなってしまう。

本当の意味で「自立する」や「社会と調和して暮らせる」を狙うには、まだまだまだまだ、こちらの理解と修行が足りない。実際アドレリアンたちは、学校現場でも時と場合をわきまえて実践するらしい。下手をすれば、すぐに白い目で見られてしまうってわけだ。