かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

詰む詰む

案の定、所見が終わっていなくてきつい。

 

私はトレーナー

私は、児童指導のクライシスに弱いなあ。微細振動的にメンタルをもっていかれる。

よってフリーランスは無理だろうなあ。重い腰が上がらない。

なんというか、こういう気分にさせられるのは、なんでも久しぶりすぎて、弱点を突かれた感覚だ。

「こうかはばつぐんだ!」なのに瀕死になれない。倒れられない。ポケモンセンターに行けない。連れて行ってもらえない。まあ、そりゃそーだ。だって自分はトレーナーなんだもの。といった感じで。

 

それでも、諸々の期日は近づいてくるし、それは私が被弾してしまったのだから仕方がないし、それを糧に次に進むしかないわけで、「さあ!仕切り直そうじゃないか!」となれればいいのだけれど、これまで的にもうしばらく時間はかかるだろうね。自分の語りだけでは、どうも人は救われないように思う。自分の外側の人々がその物語をどういう物語として捉えるか、どういう語りを現してくれるかにかかっている。

 

消極的で控えめで皮肉な人

そして、その語りを引き出すためには、私は強く、前向きに、見守ったり、信じたり、大丈夫だよといった風に取り繕ったり、健気に希望を胸に信じていて無垢なあり様を見せて、訴えかけ続けるほかない。その先に、ポロッと語りが見られることがある。長い目で、気長に。信じて待つ他ない。そういう戦い方しかしたことがないんだよなあ。反することはきつい。

 

そもそも、評価的な方でない方ばかりに行こうとしているわけで、全くもたない目でできないことをしなきゃいけないような状況だからタチが悪い。

 

それでもいいこともあるかな

どんなタイミングでなんのお告げか分からないけれど、ずっと中古で10000円台を越えていた、定価2000円の本が、1000円台で出ていた。2ヶ月ほど、毎日のようにチェックしていたかいがあった。大変に嬉しい。

ナラティヴ・セラピーの登龍門

ナラティヴ・セラピーの登龍門

 

 

そういう日々のちょっとしたいいことを拾い集めたり、それに出会ったりすることで、「ああ、まだもう少しは呼吸していてもいいのかな」と自分を慰めることができる。

 

今週は、年に一度だけ会う人と会う時間もあった。癒されているはずである。しかし、そうして癒される時間にばかり逃げている自分にも少し嫌気がして、この微細振動的な痛みは、悪循環を加速する。

 

だったら、すべきことをすればいいだけなのだけれどね。

「先延ばし不安」、先延ばしにすることで生まれる悪循環に苛まれている。

 

いや、あんたの人生いつもそうだったじゃねーか。と言われるとますます落ち込むような気もするけれど、それが自分らしくもあり、かつ、ってことは、ありのまま今をやれているんじゃないかっていう前向きな捉え方もできなくない。

 

おそらく、こんなことをタイプしていないで、一文字でも多く所見を打ち込んで、一秒でも多く所見に関する子どもの姿を思い出したり、成果物に目を向けたりすればいいだけなのだろうけれど。

 

ええ、そうです。今漂うすべての微細振動は、仕事を先延ばしにしようという「目的」のための逃避です。こんな時だけは、目的論を恨みたくなるぜ。

 

これが、流行りの「詰む詰む」ってゲーム。ひたすら指で目の前に降ってくる有象無象を消したい気分だ。