かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

前任校の運動会

‪改めて無茶苦茶遠いし、電車でどんだけかかんのよ!と思った前の勤務先へ!ハピペンです。

 

もはや、ハピペンでも何でもないもの、限りなく透明なブルー的な、透けてある人、この世にいるのといないのとの間の人みたいな気分でいる最近。

 

運動会と彼らの一年後

そんな中、前任校の運動会を見に行く。

なんか変わっただろうか。通っていた時と違って、やっぱり、遠いなあと思った。

改札を出て150回近く見た景色を見る。何度か見惚れたきれいな山並みだった。駅前のガソリンスタンドは駐車場になっていた。そして、相変わらずやたらと横断歩道前で車が止まる街。変わらない。そして、もう一つ変わらなかったものがある。

 

遠いなあとうんざりするのを払拭するぐらい、駅の歩道橋を降りる時に、気持ちがワクワクしているのを感じた。

これは、あの子たちに会えるとかそういうことではなくて、自然と沸いた。おそらくルーティンだったのだと思う。

「私はあの子たちのことが好きだった。あの子たちについての職務は楽しかったんだ」とそんなことを改めて思う。

 

1年が終わる頃、ようやく慣れてきた私たちは、安心空間を生きていたのかもしれない。知らないよりは、知れた仲といった感じに。良いところで去っているからこそ美化されているものもあるかな。

 

子どもたちは、本当に嬉しそうに居てくれて、人間って人に会って嬉しいと手を振るのは本能なんだろうなあ、なんてことを思う。「気づいてー」ってことだろうかね。

 

そして、やっぱり、子どもたちの成長した姿が嬉しかった。どの子も伸び伸びやっているように見えた。子どもが機敏に真剣に踊っている姿と笑顔を見て、涙が出そうになった。そして、また「ああ、この子たちのこと、好きだったなあ」と改めて思う。

 

一人は会って泣きそうになっていた。

そういう風に、自分にはそんなに嬉しいことが起こらないと思っているスタンスの子なのだと思う。いろんなことがあって、大切な一人。そして、話がよく分かる子。

 

2人だけ、直接会えなかった子がいた。ちょっと心苦しい。それだけ、集中して別のことをしていたのだと思いたい(ちょっとひどいなあ)。

 

受け入れるのが先か、受け入れられるのが先か

今の仕事先でおこっていることは、これなんじゃないだろうか。そこんところのコミュニケーションがうまくいかない。

 

学年はデパートだったし、教師の匿名性とか個人の裁量が保たれているのだ。だから、知らない先生に出会うことは当たり前だし、隣の教室が違うのも当たり前、その中で生きていくのが学校という風になっている。

 

一方、今の学校は、デパートとは少し違う。上手くいけば、スーパーのような、売り場が違うけれど、このスーパーの売り上げとなるような感覚でいる。しかし、その中にベンチャー精神を持った人気取りなフォロワー稼ぎをしまいアカウントがいる。そのルール違いを起こしている存在がいる結果、スーパーの中で、別の事業主が現れて客を奪われる、下手をするとグループ会社によって、さらに客を奪われ、しまいには、よくない風評まで仕立てられて他の売り場は苦しい目に合う。なんだこれは。

 

つまり、いろいろな人がいていいとして、その中で、客を奪い合うのは学校じゃないんじゃない?と言いたい。

 

隣のクラスの子の人気をとっても、隣のクラスは良くはならない。もちろん、個人に人気を取れない要素、信用ならんとか、能力が低いとかいろいろあるだろうという理由もあるにはあるかもしれない。自分に対してはそういう刃を向けている。

 

ただ、そんな風に自分の望んだような相手でないと、文句を言いたくなるような子どもたちに育っているというような側面もあると思う。「それでも、私たちなりに、良さを見出してやっていきます」ということが言えない。「嫌だから、嫌」の世界なのである。

 

すると何が起こるかというと、風評によって「受け入れない土台」ができる、それに対してこちらが受け入れる姿勢を作る。ただ、そこが相容れない。そういうハンデ戦。

昨日も似たようなこと書いたが。

 

でも、どれもいい経験なんだよね。人間についていろいろ知るには、本当にどの経験もあっていいなあ。

 

そして、かなりピンとくることを思いついたんだ。

 

人間が生きやすくなるためのコミュニケーションについて

朝、ものすごいことを思いついた。

 

つまり、コミュニケーションを合わせたりずらしたりすることで、気持ちとはウラハラに、生きやすい状況を生み出せる可能性がある。即効性はない。ただ、かなり使える手だと思う。

 

また、観察していこう。