かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

こういう日もある

今朝から妻は産休であり、なんとなくテレビがついている朝だった。

 

首里城が燃えている。

 

昨日、ジャパネットタカタで売ってたクルージングに、沖縄が入っていたような……。

 

facebookには、エアーズロックをアボリジニの人たちの聖域として、やっと観光客が立ち入れないようになったという記事がシェアされていた。

 

朝会では、平和学習について語られ、「自分の周りが平和になるように行動する」といった旨が語られ、上の全てがリンクする。

 

私たちは今平和に過ごせているか

 

LINEの中で、平和にやり取りできているか。

自分たちで平和をつくる行動を選べているか。

SNS疲れというのがあるように、時間を奪われたり、関係が壊れるのを気にして負担になっていたりしないか。そんなことを問うた。

 

それは、少し刺さったようだった。

 

「自分の周りが平和になるようにすごせるといいよね」

明日は、大草先生の言い回しも使ってもう一度思いを伝えてみよう。

 

「今は、そうしちゃったんだから仕方ないよね。でも、そうしない人になれるよ。なれると思うよ。そういう人になっていこうよ!」と。

 

よって、本日は大変過ごしやすい一日だった。子どもたちは、少しずつ変わる。いろいろな日がある。

 

昨年、一喜一憂して本当に疲れたからか、「保留にすること」が、上手に出来ていると思う。

 

今週の通勤は「12ステップ本」を読んでいるのもあるかな。そういう意味では、少しきついって感覚がないわけじゃないのだけれど。九月よりマシだ。でも、こういう、◯◯よりマシだ思考は、場合によっては自分を痛めつけていて、◯◯よりマシでも苦しいものは苦しいという自覚ができた方が、健康だ。

 

とりあえず、今日思ったのは、地球は別に奇をてらうようなことをしているわけではなく、ただ回っているだけで、私たちがそれを良いだの悪いだの言っているだけなのだ。意識的な静観で、やり過ごせることも少なくない。

私の手の届かない範囲で、子どもたちは変わると改めて思う。

 

使えるものは何でも使うし、いいなって思ったことは試すし、投げてみるけれど。

 

あと、学校って、結局変化を起こす学びを提供するってよりは、「学び方」の提供、いわゆる「見方・考え方」の提供にすぎないんだなということが分かった。

 

だから、学校でやっていることが、解けるとか、分かるとか、できるってよりは、こうするとこう学べるとか、こうすると調べられるとかそういうことなんだと思う。

 

そして、本当の学びは、学校を越えてやってみたことの中にしかない。そのオリジナルなテーマの中での躍動が、「その個」の学びになる。だから、いくら、お膳立てしても、主体的になったのか?よか分からなくなるのは、やっぱり、一番大きな外側の枠組みが、提供だから何だと思うんだよね。それを、いかにそう見えないか、擬態しまくっても、徒労に終わるように思う。もちろん、私がそうとしか思えない経験しかないだけなのだけなのだろうけども。