表現が悪いだろうけれど、要は、撒き餌の餌がきちんとあるか。
ただし、それでいいのかも気にはなる。
ユニットについて
ただ、ある程度やらせる中で、「脳を鍛えていく」という考えに大変納得していく。
それを「密度」と表現されているが、その密度が少ないと学びの量も質も下がる。
まず、「自分は授業で伸びることができる」という感覚を味わせることが大切なのだろうなと改めて思う。
今やっているのは「割りきれる数のわり算100問」。これが、大変ハマる。
自分から目標を持って、やる子が出てくる。すごい。
「自分は計算が早くなったかもしれません」と喜んでいるかもいる。たったの三日間、割り切れるわり算を100問やっただけで。
このように、子どもにとってちょうどいい活動をどれくらい持っているのかは、プロとしての蓄積なように思う。自分は全然もっていない。
このちょうどいい活動をユニットと呼ぶのだと思う。ユニットの集まりで授業を構成できると、子どもも私もハッピーになるのではないか、と思う。
このような取り組みについては、ここに書かれていた。
あまりにも、子どもたちを変えるのでパート2も買ってしまった。恐らく、私にない部分をちょうど埋めてくれるような、ちょうどいい内容が詰まった本なのだ。
毎日の国語と算数をこうした活動で潤すことができたら、学校は少し楽しくなると思う。
主体性だなんだ云々の前に、授業で提供されることの楽しさも、なかなかクラスを一年間やっていく中では大切なのだなと思う。
与えるということ。理想の学級以前に、コントロールできていて、悪さしない学級の方が、楽だし伸びるしという感じで、なんとも言い難い気分になる。まあ、それでも、自分にない部分は日々アンテナを張りながら気がついて、その穴を埋めていけたらいいなと思う。
「常時活動」をもう少し大切にしていきたい。
ほめシャワ
今年度も、今週から始めた。なんとなく冴えない学級の、何のために一学期間「イイネ!さがし」をさせられていたのかの、答え合わせが始まる。
日直を一人でやって、帰りの会で、その一人目掛けて「イイネ!」を言っていく。
一学期からの変遷を言うと、
- クラスのイイネを日直で見つける
- 個人の誰でもいいからイイネを見つける
夏休み明け
- くじを引いて、対象の子のイイネを見つける
- みんなで、日直のイイネを見つけて言う(全体の2割くらいの人数が言えればよしとする)
イイネを見つける感覚をコツコツと積んだから、日直に一斉に言って、出ないで時間だけがただ過ぎていくってことが起こらずに済む。
帰りの会で、サッとイイネを伝えることができる。
子どもの評判もよい。
この活動を見て「それめちゃくちゃいい気分で帰れるじゃないですか!」と言い、実際に体験した子は「なんかちょっと嬉しいです」とか言っている。
承認欲求時代に、こう露骨に見てもらえましたという経験を確約できることは、学級にとっても、子どもたちにとっても、とにかく良いことしかない。ほめシャワは、勝てない要素がなさすぎて驚く。
総じて、いい一日だった。学級相関図のようなものを書いてからは、落ち着いて子どもたちを見ることができている。各々は、各々生きていて、決して、バラバラとボロボロもつれこぼれていっているわけではないのだ。
そして、スペシャルファクターが何人かいる。その公平な目と、真っ直ぐな行動があれば、大崩れはない。
そこを押さえることを忘れなければいいのだなと、安心する。決して、油断ではなくて。