かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「与えられるということ」かな

今日は、さっそく、テストを授業中に返して、直しをさせてみた。少し45分をオーバーしたけれど、放課後に改めて丸をしたり、それを返したり、直しをさせたりがないと、タスクを抱えずに済んで、身軽になった感じがした。

そして、一人ひとりに声をかけられる。反対になぜ今までこれをしてこなかったんだろうって感じだ。若干遅すぎるって感じだけれど、彼らにとって、私は下手するとリソースなのかもしれないことを実感する。

 

ノートもそうやって見られるようになる……だろうか。うーん。

 

昨日から読み始めた本。

短期療法実戦のためのヒント47──心理療法のプラグマティズム

短期療法実戦のためのヒント47──心理療法のプラグマティズム

 

 

「与えられるということ」

これには、両側面がある。

こちらから、あちらへ。

あちらから、こちらへ。

このどちらもが与えられると。

この両義性のヒントが短期療法にはある。

 

問題が続くのは、ある側面に固執しているからだったりする。別の側面をみると解決できることも少なくない。

 

ポイントとなるのは、

誰が何を問題としているか、それに従って自己制御が、起こっていることに目を向けて欲しい。

「なぜ人と組織は変わらないのか」に似ている。

 

自分の隠された信念が、問題を持続させる。そういう自己制御をすることによって、生き長らえさせてきた、そうであるということには、「自分のための何か」があるのだ。

 

こんな質問から、解決をイメージできるとよい。

「たくさんの問題があるけれど、まずはこの部分が少し変わると、少し楽になれることはどんなことでしょうか?」

「何がどのように変われば、ここに相談に来てよかったなあと思いますか?」

 

「与えられるということ」の両義性。これを感じられていたら、そのクラスは強いだろうと思う。

 

世界一の学級経営なんかに書かれている、教師が児童のことを思っていて、児童が教師のことを思っているクラスが良いクラス的な話に近い。

 

その両義性を、見失って、偏った目で見ているときに、勝手に問題は起こっている。

 

お互いが作用して、常に進化は起こっているというのに。