今日は、さっそく、テストを授業中に返して、直しをさせてみた。少し45分をオーバーしたけれど、放課後に改めて丸をしたり、それを返したり、直しをさせたりがないと、タスクを抱えずに済んで、身軽になった感じがした。
そして、一人ひとりに声をかけられる。反対になぜ今までこれをしてこなかったんだろうって感じだ。若干遅すぎるって感じだけれど、彼らにとって、私は下手するとリソースなのかもしれないことを実感する。
ノートもそうやって見られるようになる……だろうか。うーん。
昨日から読み始めた本。
短期療法実戦のためのヒント47──心理療法のプラグマティズム
- 作者: 若島 孔文
- 出版社/メーカー: 遠見書房
- 発売日: 2019/11/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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「与えられるということ」
これには、両側面がある。
こちらから、あちらへ。
あちらから、こちらへ。
このどちらもが与えられると。
この両義性のヒントが短期療法にはある。
問題が続くのは、ある側面に固執しているからだったりする。別の側面をみると解決できることも少なくない。
ポイントとなるのは、
誰が何を問題としているか、それに従って自己制御が、起こっていることに目を向けて欲しい。
「なぜ人と組織は変わらないのか」に似ている。
自分の隠された信念が、問題を持続させる。そういう自己制御をすることによって、生き長らえさせてきた、そうであるということには、「自分のための何か」があるのだ。
こんな質問から、解決をイメージできるとよい。
「たくさんの問題があるけれど、まずはこの部分が少し変わると、少し楽になれることはどんなことでしょうか?」
「何がどのように変われば、ここに相談に来てよかったなあと思いますか?」
「与えられるということ」の両義性。これを感じられていたら、そのクラスは強いだろうと思う。
世界一の学級経営なんかに書かれている、教師が児童のことを思っていて、児童が教師のことを思っているクラスが良いクラス的な話に近い。
その両義性を、見失って、偏った目で見ているときに、勝手に問題は起こっている。
お互いが作用して、常に進化は起こっているというのに。