かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

嫌じゃない週末への入り

一週間に30人のいいところを伝えられた。

宿題は提出と同時に見て、声をかける。返せる場合はその場で声をかけて返す。

 

意識して、声をかけられる時を増やす。

気づくのは「えっ!なんでこんな大事なことやってこなかったの!?」ってことで……大反省である。

 

昨年の彼らもコミュニケーションが枯渇していたかもしれない。本当に悔いが残る(そう感じさせない何かはあって、会えば歓迎してくれるとしても)。

 

今、「進化の時」じゃないだろうか。そんなことを思う。

 

面談もあったけど。

今日はなんてこともなく。

終わって、ふー。

 

ただ、やっぱり「自分はトリミングしたところしか見ていない」と言うように、見落としはあるだろうなと思う。強引なリフレーミングでストーリーの主導権を奪うわけでもなく、フライイングせずケアしていきたい。人生は長い。その中で、誰の今年をも最高にできるわけではないのだろうな。と悟る。

 

たとえば、私が最高だと思ったとして、それは、私が最高なだけで、クラス全員ではないわけだ。思い込みがよくない。自己欺瞞たら自己正当化と。そうしないところにトータルの解決があるように思う。その子の、その子だけの人生の解決が。もちろん、問題として表出すればいくらでも、介入するとして、それが、問題になるのは、今回のお話ではないってことだ。

 

ユニット的な時配

  1. 漢字の空書きを7字
  2. 一年生の全漢字3分
  3. その回収を1〜10、11〜20、21〜30ごとに、1、11、21の机に集める。
  4. あまりのあるわり算
  5. 答え合わせ

これらで、20分かかってしまう。

ただ、それで、残りの25分は単元のことをやる。

 

何より面白いし、不思議だなあと思うのは、ユニットを入れた方が授業の進みが早いことだ。

 

45分その単元のことをやるよりも、20分ユニットと25分単元のことの方が進む。不思議だ。

 

それをユニットでは「密度」の違いと言ったりする。まったく不思議である。

 

漢字にしても、わり算にしても子どもたち自身が伸びを感じている。それがよい。

 

あー!!

お友達の伸びを「やったね」と言っていた子を取り上げ損ねている。週明けに言祝ぐしかないが、それで少しでもそのよさに気がつく子が増えるとよい。

 

退勤間際にたまにしか話さない人と話せた。その人は、なんだか今日は陽で、明るくさせられた。こっちは、子どもを人質にとってんだくらいの勢いでいたらいいと言っていた。

 

なるほどねと。

 

私はもはや、彼らにとっての、それなりの重要人物になっているということだった。急にいなくなったら困る存在。

 

ああ、そうか。

 

これは、前にも友だちに言われたことがあったことだけれど、「自分でいいのか、なんてことは考えない。やってやってんだぐらいでいい。」というようなこと。

 

専門学校時代の担任に大学への推薦書を書いてもらいに会ったときの私の態度に「謙虚さも大事だが、卑屈になってもよくない」ということを言われたのも思い出す。

 

そこから抜け出すには……もう少し経験がいるだろうなあ。

 

ああ。どんな人とも分かり合えたら。

でも、分かり合えないから。稽古にもなる。