かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「子どものために」って言葉を一度駆逐したい

職員会議のTHE印籠が「子どものために」である。

次点で「お家の方のために」。

ただ、後者は下手をすると学校をサービス業化するだろうと思う。

 

じゃあ、「子どもために」何をするのか。

そこは、学校ごとに違うとか、子どものニーズで違うとか、お家の方のニーズで違うとか、になっていく。ただ、実際の本丸は「学習指導要領」だろう。それを背負ってせっせと教師たちは頑張る、はず。

だから、学習指導要領以外の「子どもために」とされることを、たとえば、行事や会議をせっせと勤務時間内に頑張り、勤務時間外に「学習指導要領」について、主に「授業」についてをせっせと頑張る。

 

おかしいなって思う。

 

本丸は?

 

そうなると、悪しき風習や、文化や伝統という理由だけで残っている行事や会議を見直して、授業についての準備や検討、試行錯誤を勤務時間内にできないだろうか、と思う。

 

市内で一番働きやすいって言われる学校を目指したらいいじゃない。どうして目指さないのか。

「子どものために?」じゃあ、市内で一番子どもが育っているのか。

そういう評判があるのか、異動してきた人は幸せそうに働いているか。

 

それに「Yes」と言えない異常さがこの仕事にはある。

 

働きにくい職場で結果は出るのだろうか。

「子どものため」だからと本丸である授業のことを勤務時間外にやる職場が子どもを育めるのだろうか。

 

私は、どちらも逆だと思う。

まず、「働きやすい学校」にしないと成果が出ないと思う。

そして、本丸の授業について、安心して安全に時間をかけられる時間配分にしないと、結局子どもは育たないのではないか、と思う。

 

たとえば、満足度の向上や思い出づくりには、なったとしても。

 

働きやすい学校については、本当に子どもにとって必要なことのみが時間を奪えるようにすること。混乱しないように時間を割いて会議をするよりも、大けが事故さえ起こらないようであれば、あとは、各割り当てがどう動くかを、相談する時間に充てた方がよい。多少のミスや齟齬前提で子どもに降ろしても構わないと思う。そういうこともある、それを臨機応変に解釈して乗り切る子どもを育て方がよい。もう「そう書いてませんでしたか?そう決まったましたよね?」と誰かを責める時代は終わったのではないか、と思う。だったら、ミスないように上ではなくて、現場がコミュニケーションする時間を増やした方がいい。

 

もう一つは、授業についてで、授業についての各学校にある財産がまったく運用されていないと思う。経験者が知っているHOWが降りて来ない。「聞かれないと応えない」が起こっている。それでいい。ただし、聞く時間がない。多忙からの疲労で、上の先生ほど早く退勤している。勤務時間は、目一杯会議である。じゃあ、いつ聞くのか。困った結果が、時間外の研鑚と土日出勤である。効率の悪いやり方で自分流を生み出して、翌日や次週に臨むのである。だったら、勤務時間内に授業について話す時間がほしい。こちらも、現場のコミュニケーションを増やすということに着地する。

 

この異常さを打開して是正出来ないと、本当にますますこの仕事はブラック化していくだろうと思う。

教育とサービス業を意識してニーズを受け入れないと、できないことが増えていく。現場で一番できていないことが、「子どもを育てる」ということなのではないか、と思う。少なくとも、子どもを組織的に育てるということは、できていない。そういうもんだから、仕方ないのなら、もちろん現状維持で構わない。

 

教師もお家の方も、同じ未来を幸せに生き抜いていく子どもを育てる教育者として共働しているのであり、決して、サービス提供する側とされる側になってクレームを減らすことが、教育者としての仕事ではない。

 

誤ったものを恐れて、誤ったタスクを増やした結果が、今の現場なんじゃないだろうか。

「子どものために」ではなく、「自分の身を守るために」の繰り返しで起こったことが、だ。

 

もう死ぬ氣の炎だ!!

f:id:penguin-kn:20191124181117j:image