昨日に続いて、もう少しわーわー言いたい。
学校への願いとして、「授業」を充実させないシステムなら、できれば世の中の声を「行事」にシフトしていってもらいたい。経済の声から、教育課程は「授業をやる時間」で、ぎゅーぎゅーになっているので、ならないように……もはや、投票に行ってくれ!!教育のために政治に関心をもってくれ!と言いたい。
今の簡単な構図を言えば、
- 「経済→文科→現場」のコースのぎゅーぎゅー。こちらは、違反できない、法律で縛られている部分。
- 「お家の方の声→子どものニーズ→現場」のコースのぎゅーぎゅー。これも、子どもの権利条約にあるように「子どもの最善の利益」を考えると無視できない。現場は身近なこちらを優先して立ち回っているはずだ。
今思うのは、「1」が時間を奪い始めているということ。どうしたって、やることは増えても、時間は増えない。その結果、どこのパイから取られるかと言えば、「2」からなのだ。だから、「2」を継続して、「1」の教育課程をこなそうとすると、職員が搾取されるしかなくなる。純粋に身がもたない。プライベートはない(公人だから当たり前だろうか?)。とても極端に言えば、職員にかかわる「依存労働」は職員の家族が一挙に引き受け、職員は家族の運動会は見られない、土日一緒に過ごせない(若干極端)、夕飯は一緒に食べられない(食べられたとしても20時過ぎにカップラーメンを3歳児と食べる。別にカップラーメンをディスっていないし、毎日ではない)、仮にそれで「1」も「2」もできたとして、身体はもつのかを問いたい。何歳までもつのか。
現場の職員には、「人生がない」。人間の人間らしい生がない。学校と家庭と職場、「学ぶこと」と「生活すること」と「働くこと」の無意味化を突きつけられているのが、これからの教師と思えてならない。「全体の奉仕者」だから、仕方ないのかもしれない。時間がない分を長期休みから借りればいいのだろうか。
私は、とにかく「身はもつのか」が気になる。
この「身はもつのか」というところで、また、悪循環のループが生まれる。
「若いうちは、長時間労働で貯金(授業力)をつくる」ということが、当たり前になる。
その貯金で、子育て世代、身体に疲れのあるベテランは、時間内に帰りましょうということだ。
これは、理論的には、間違っていないかもしれない。
マルクスでいうところの「剰余価値」が、この時間外で生まれており、それだけが子どもを育てるということだ。
ただし、その「剰余価値」は、自己犠牲によってだけで生まれているのではなく、その人に紐づくご家族が搾取されているということを忘れたくない。
その回らない前提、時間外勤務を前提とした仕組みでないと成り立たないものを背負っているという状態は、とりあえず異常だということだ。
そうなれば、まず、体力のある人だけが現場に残っていくことになる。
家族のことを省みない人だけが残っていくことになる。
果たしてこのシステムは、持続可能なのだろうか。
どんな教育を求めるのか、どういう人たちに教育を受けたいのか。
今一度、大人たちで、教育と政治に興味をもって、きちんと願いや意見を票に乗せていく必要がある。
どうしてこんなことを言うかといえば、結局、疲れていない方が、現場がコミュニケーションを取れている方が、子どもが落ち着くと体感するからである。そして、その体感は、授業が気持ちよくできるから起こっているとも自覚している。
時間に余剰がないと「こなす」ということで、すべてが終わっていく。そこに「育ち」はない。おそらく、教師にも、教師の家庭にも、子どもにも、各ご家庭にも。ということは、この社会にも、この国にも。
「子どものために」って言葉を一度駆逐したい - かならず幸せになれるいきもの
他に。今、成績の時期に入っているが、たとえば、所見についての懸念をもっている人がいる。全校で文字数をそろえるか、どうか。うちの子だけ少ない、サボったのではないか、と悪者にされないか、を恐れている。その風土は違う。出し抜かれたり、闇討ちされたり、陰口を言われたり。そんなのは、おかしい。まず、それを取り除かなければならない。
諦めないこと、やったことのないこと、工夫することを目指す。それで、言われたら変えることは、いる。そうしないで、言われないことと、そうすることで、言われることは、等価だろうと思う。そして、未来に向かって、「する」ってことが、「してみる」ってことが、この先財産になるだろうと思う。カタサを拭いたい。
また、時間のなさは、ノーミスを求められることにもつながる。ミスできない。授業を1時間失敗すると、もう取り返しがつかないのだ。
今日は、「植松努さん」を扱ったり、席替えをしたり、漢字をわーっとやったりした日。鳥獣戯画にも入った日。