かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

『なぜ、エピソード記述なのか』【序章より】

今年に入ってコンビニやスーパーでジュースを買っていないハピペンです。飲みたくなるけど堪えています。野菜ジュースやお酒は飲んでるけど。(これは、4月に入って崩壊しました。)

 

「行動変容主義」という言葉を検索するとこの本が出てきた。

 

なぜエピソード記述なのか: 「接面」の心理学のために

なぜエピソード記述なのか: 「接面」の心理学のために

 

 また会ったな!

よいしょっと「エピソード記述」について - かならず幸せになれるいきもの

 

検索の段階で、この分野に出てくる独特の言葉に(「接面」「間主観的」など)、懐かしさとその言葉を説明できない自分はまだ何も分かっちゃいないと思って、購入に踏み切る。

何より「行動変容主義である」感覚と「行動変容主義でない」感覚の違いを知りたい。

それは、自分が何を見ているのか。子どもを見ているのか。といった自身への疑いを晴らすためのテーマでもある。

 

【序章】からやられる。内側から食い破られる。

そうだ!私は子どもを見ていない。そして、もっと子どもを見たい。

ここ最近で一番大きなアイロニーだ。

「自分のこれまでの全体を含む根幹」を批判してみること。

 

アイデンティティの崩壊みたいな。全とっかえと私は呼んでみている。この全とっかえをしている人を昨年度に一人見た。

自分の信じているものをすべて否定して、全く違った考えにいくこと。

しかし、根底にあるルーツは変わらず、そのルーツに気づきつつ、偽りの解決と言えるような誤ったパターンを変える。ただし、その変更にはこれまでの経験すべてが使い物にならないというわけではなく、ほんの少し、見方やスパイス、エッセンスを加えればいいというイメージ。

 

そもそもこの仕事したかったかな。

そもそも自分って周りの思うような人間じゃない。

そもそもこんな自分になりたかったんじゃない。

 

そして、自分の憤りは、自分がそう在りたいから、すでにそう在る人を蹴落としたいだけなのかもしれない。

 

子どもを見られる存在になりたい。

誰もが子どもを見られていないとする。

新たな考えを展開する。というような。

 

で、「子どもを見る」ってどんな定義?

ってなる。

「子どもを否定しない」などと言っていたが、まだ不確か。だから、それが、「子どもを見ているか」が分からない。

 

これは、いつもの「ないものを追うナンセンス」かもしれない。

 

ただ、これらに関する「やりたい」は強い。

子どもを、というか、人間を見られる自分で在りたい。自分をちゃんと見ていないから、他人を見られないというのもあるかもしれない。

 

灰谷健次郎

林竹二

✖️

エピソード記述

✖️

ブリーフセラピー 

✖️

適応(指導の汎化)

(これ、うまくいくか?いや、いけるかもしれない。どれも『目の前の人』の背景や内面を見ようとすることばかりだ。その瞬間に全力。気をつけよう。)

 

というわけで、衝撃を受けた序章を見ながら、

感じたことをメモしていく。

 

どの分野で注目されているのか。

エピソード記述の方法は保育や教育の実践に携わる人に幅広く浸透するようになり,また心理学研究の立場の人たちにも数ある方法論の一つとして,あるいは質的研究法の一つとして興味や関心をもたれるようになってきました.

 

「エピソード記述」の意義について。

私の主張する「関与観察とエピソード記述」という方法の意義は,単なる記録の取り方の一つ,あまたある研究方法の一つというところにあるのではありません.手前味噌になるのを憫れずに言えばこの方法は,保育や教育,看護や介護など,人が人に関わる実践の場や,人と人の関係を扱う諸科学(心理学や教育,あるいは看護学や医学など社会福祉諸科学)に蔓延している「行動中心主義」と「客観主義」を払拭し,新しい心理学の枠組みを打ち立て,それによって実践や研究に新しいパースペクテイプを切り開こうという大それた目論見をもつものだからです.

 

人と人の関係を問題にしようとするとき,実践の立場も,人間諸科学も,今やその関係を単に行動と行動の関係に還元してしまい,実践の場では「人の行動を如何に変えるか」に関心を限局し,また人間諸科学も行動を変えるための理論を組み立てることに躍起になっているように見えます.

 

「行動中心主義」は確かに実践に携わる人には(そして保護者にも)分かりやすいものです.特に自分は何をすればよいのか,関わる相手に何をしてあげればよいのかというように「なすべき行動」を明確示すことを求める人.あるいは「なすべき行動のマニュアル」を求める人にとっては,この「行動中心主義」は課題解決の道筋を示すもののようにさえ思われるかもしれません.

 

 

人を外側から見れば確かに
「行動」が捉えられます.人と人の関係も,外側から見れば行動と行動の関係のように見えます.けれども,行動を(行動だけを)取り上げることによって,人との関わり合うときに生じていることを真に掬い取っていることになるのでしょうか.ちなみに,「人と 人との接面ではいったい何が起こっているのか」と
問うてみるとよいと、思います.

人と人の関係を外側から眺めれば行動と行動の関係としてしか見えないとしても,人と人の面に自分が当事者として関わってみればその接面では単に相手がこう言った.こうしたという行動だけでなく.相手の心が動いていることがまず掴みとれ.また自分の内部でさまざまな心が動いていることが実感されるはずです.

 

その接面でのお互いの心の動きこそ.人と人の関係の機微をなしているものです

 

しかし,この人と人の接面で生じている双方の心の動きは,目に見えるものではありません.第三者には把握することができず,当事者にしか掴めないものです.

 

ここに一つの大きな岐路があるように思われます.つまり,接面で生じている目に見えない心の動きを当事者の立場で捉えて.その関わりの機微に入り込み,そこから人と人が共に生きることの意味を考えようと目指すのか.それとも,その接面に生じていることを無視して,あくまでも人と人の関わりを第三者の観点から行動的相互作用として見ていくのかの岐路です.それは目に見えない心の動きを当事者の意識に照らして議論する方向に向かうのか,それとも目に見える行動に議論を限局する方向に向かうのかの岐路でもあります.このように整理してみると,「関与観察とエピソード記述」の方法は,単なる記録の取り方でもなければ単なる観察の一方法なのでもなく.人と人の接面で何が起こっているかという素朴な問いに対して当事者の立場に立って.且に見えない心の動きをも含めてそこで起こっていることを明らかにしようという目論見をもつものだということが分かるはずです.人と人の接面での心の動きは目に見えません.それを当事者が描きださない限りは,第三者にはそこでの心の動きは分からないのです.

 

 

側から眺める枠組みの下に成り立つ学問ですですから,客観主義を標榜する人間諸科学も.この第三者の視点を守ろうとし.当事者の立場を無視ないし排除しようとしてきましたそしてその学問の客観主義の姿勢が実践の現場にも持ち込まれる結果,その実践の動向もまた行動中心主義に大きく傾斜してきているように見えます.私はそこに現在のさまざまな実践の場の危機があると見ています.実践の場は,何よりも人と人の接面で生じている心と心の絡み合いの機微から次の展開が生まれる場です.実践者はその接面に関わる当事者として.相手や自分の心の動きを感じ取り,それによって相手への対応を微妙に変化させて1関わっているはずです.それなのに,その接面で生じていることを無視ないし排除して.行動と行動の関係に還元する学問の影響をこれほどまでに安易に受け入れていってよいものでしょうかもちろんそうではありません.そこにいま,人と人の接面で生じていることをエピソードに描いてそれを職場で読み合わせ,あるべき実践のあり方を模索しようという動きが拡がりつつある理由があるのだと思いますそこから考えればエピソード記述は,人と人の接面で生じていることをその一方の当事者の立場から描き出して,自分の実践や関与のありようを吟味していくほとんど唯一の手続きだということができるでしょうそしてそれは,実践の場や人間諸科学の行動中心主義に疑問符を打ち,人と人の接面に目を向け直して,そこに生まれる目に見えない人と人の心の動きを捉える唯一の攻め口だと言えると思います.「関与観察とエピソード記述」の方法があまたある方法の一つではなく,従来の行動中心の実践や研究の枠組みそのものを変革して,人の心の動きに目を向けるようにしようという,ある意味では大それた目論見をもつものだと述べたのは以上の理由からです.

 

特にこの10年,私はさまざまな実践の場に対してその行動中心の実践の
あり方に対して「このままではいけない」と強く思ってきましたそして人間諸科学に対しても行動科学の枠組みの影響がこのように生活世界に入り込ん
で行動中心の見方を助長してよいのだろうかという疑問を,今までにも増し
て強く抱くようになりましたその間の事情をまず説明してみたいと思います

 

存在そのものを喜ぶという気持ちにはなかなかな
れないようです

 

人生は後戻りが利かない、替えが利かない。上手くやらなければならない。失敗してはならない。そんな思いが人生をつまらなくしている。

 

次々に教育教材を「与える」,何かを「させる」という働きかけになり,
願いどおりに子どもが振る舞えば褒めるという対応が子育てだと信じるようになりました

 

ここにも,子どもとの接面で生じている心の動きから対応を考えるよりも.むしろ願わしい行動の定着に目を向ける動向が端的に現れています.
そして.そこから.習い事,お稽古事へと子どもを引っ張り,知的な達成に目を1句けるか.一芸に秀でることに目を向けるかの違いはあれ, 一握りの成功する人をモデルに.子どもを後ろから押してひたすら力をつける,そのために親としてできることは何かを考える, というかたちで過剰に子育てに入れ込むか,あるいは-T-ffては保育所任せ,学校任せで,子どもとの接点を創り出そうとしないままにすますかというように.子育ての二極分解が進むようになりました.
いずれの場合も,親の目が子どもとの接面に向かわなくなったことが問題だと思います.それが本来の子脊てを歪めているように思えてなりません。

 

子ども一人ひとりに保育者の目が向かわなくなりそのために自分との接面で子どもがどのように心を動かしているかも感知できなくなって,子どもの思いを受け止める,子どもの存在を認めるという保育者本来の働きが弱くなり,集団全体に何をさせるか何を与えるかしか考えに浮かばない保育状況が生まれています. このような保育動向によって,自信,信頼感安心感自己肯定感,自尊感.意欲といった,一人の子どもが主体として育つのに必要な心の育ちが軽視ないし無視されるようになったのだと思いますまた実際に保育の場を訪れてみるとそうした心の育ちの十分でない子どもたちが残念ながら数多く目にとまる現実があります.

 

 目の前に適応することが、社会に適応することなのか。

その二重の適応にどう応じるかがややこしい。

 

そういうものだとして、やらせるための教育。本当はそこに多種多様さがあっていい。

誰かが嫌な気持ちであったり、怒られたりするようなありがとうの会では、そもそものその在り方を問わなければならない。

学校としての覚悟がいるように思うが。

全力で子どもの側に立つ。学校の運営の側に立つのではなく。

 

こうした行動中心の動向.つまり.皆と同じ行動ができることを求め,できなければできるようにするという強圧的な視線で子どもをまなざし,できることを削やすこと,集団行動が取れるように導くことなど. 目に見える力をつけることに躍起になり,それでも思うように行動の定消が図られなければ.行動科学の教えるところに従って.さまざまなスキル・トレーニングを行ってその麟を1迅lるという保育動向がいまや無視できない勢いを見せています.その珈iりが結局は子ども一人ひとりの心に目を向けることをより一層難しくし,子どもの主体としての心の育ちを重視するはずの本来の保育のかたちを崩しているよう‘に見えますそのことが私の保育の世界に対する危機感の出所ですこの動向には何としてもストップをかけなければなりません. というのも,カをつけることだけを目指して子どもを頑張らせることがいかに子どもの心を圧迫するかいかに子どもらしい姿を抑え込むかを,さまざまな現場でいやといぅほど目の当たりにしてきたからです「健常」と言われる子どもたちの中にさえ,子どもらしいエネルギー感を感じさせない,存在感の乏しい,興味や意欲に欠ける子どもたちが多数目に付くようになりました大人の顔色を窺い,評価に敏感で,聞き分けは良いけれども,自分から物事に取り組む姿勢の弱い子どもたちが大勢目につくのです.そして,そうした子どもたちの多くは,自分の思いを周りの大人に受け止めてもらうことがないまままた自分の存在を心から肯定してもらえないまま保護者や保育者の言うなりに何かをさせられてきた子どもたちであるという共通点をもっています
このような不幸な流れを変えるためには,まずもって子ども一人ひとりの心に目を向け直し,子どもの思いを受け止める保育に方向転換しなければなりません.保育者のエピソード記述は,ですから,子どもと保育者の接面で生じていることを詳細に描き出して,保育者が子どもの思いを受け止めているかどうか,それに基づいた対応をしているかどうかを深く吟味し,そこから保育を振り返る契機にするという意義をもつものです.

 

「あれができるように」「これができるように」「力をつければ将来幸せになる」「行動を変えれば集団生活に適応できる」といった大人の側の思惑を背景に,大人たちがつぎつぎに課題を与え,頑張ることを求め,頑張った結果が出れば褒めるけれども.結果が出なければ蔑んだ目で見るというかたちで,行動中心に対応してきた結果ではなかったでしょうか 

 

大人たちは子どもを「何ができて,何ができないか」というように行動面,能力面など目に見える面ばかりで見て,いまどう思って生きているのかどうしたいと思って生きているのかなど, 目に見えないそれらの思いにほとんど目を向けなくなってしまったように見えます. ところが子どもたちはみな機会あるごとに.「私はここにこうしている」「私をしっかり見てほしい」「私のありのままの存在を認めてほしい」という声なき声を大人に伝えているのですそれに13を向けないままあるいは気づかないままどうしてもっと頑張らないのか, もっと頑張れば結果はでるはず,そうすれば必ず幸せになるからという大人の行動中心の対応は.結局は子どもの思いを無視し,子どもの主体としての心の動きを抑え込む結果になっています.そうした力をつけようと焦る大人の対1、心が本当に子どもを幸せにしてきたのでしょうか「明日のために今(3がある」と言わんばかりに.今日の努力を求めるだけで.「いま.ここ」でのないま子どもの思いを受け止めないまままた子どもと心で繋がる経験をもたま.「させる」対応に終始することは.子どもや青年たちの心を圧迫し,その心の育ちを歪め.生きる意欲を失わせる結果になってこなかったでしょうか 

扱いやすさは正義か。

 

早い発達がよいことそのためにできることを増やすこと,そういう枠組みで保護者も保育者も子どもを見るようになり,「させる」動向が強化され.その結果子どもの遊びがますます貧困化し,心の育ちなど目に見えないものは無視されてゆくようになりましたここにも圧倒的な行動中心主義があり,接面で生じていることを無視する傾向が助長されています 

 

 思考力がいる。そんなことよりも人間を見たいってのもある。

 

こうした目に見える行動目に見える力に焦点化して子どもを見る傾向は,
障碍のある子どもに対してさらに強く見られるものです.「発達」という観点から眺められるとき.障碍のある子どもは健常な子どもに比べて,何かが「未発達な」子ども,何かが「遅れている」子ども,何かの「負の行動を抱えた」子どもと見られます.そのために.健常な子ども以上に,「できることを増やす」.「負の行動を減らす」ことに向けて後ろを押され,結局はこの場合も行動中心に子どもを見て,子どもの心の面に目が向けられることはほとんどありません 

 

障碍を低減するという主旨で,生活に必要なスキルの訓練対人IUJ係に必要なスキルの訓練というように,負の行動を減らし,正の行動を増やすという応用行動分析的なスキル・トレーニングが次々に課されるようになりましたそしてその成果を数値目標の達成というかたちであげつらい,その結果.子どもの一人ひとりの心に目を向けることがますます少なくなってし
まいました子ども一人ひとりの心に目を向ければ何が不安か,何が面白い
か.何をしたいか,何がしたくないか,何に困っているかなど,子どもの心の動きを掴んで対応する必要があるのが分かるはずですが,

 この弊害については最終章に書かれているらしい。

「自立」のために,結局は「00ができるように」「△△ をしないように」という,行動変容中心の,かつまた支援者主導の支援が目指されています.その結果,本人が何に困り, 何を楽しいと思い, どうしたいのかというように,本人の心の動きに目を向けた本人中心の支援が顧みられない現状があります.そこでは「社会的自立のために必要だから」という理由を隠れ蓑に,結局は行動中心主義が貰かれていっています

 

人が人と共に生きるありとあらゆる場で,目に見える行動目に見える能力,あるいは客観的に押さえられる行動だけが取り上げられ, 目に見えない心は脇に追いやられるか,無視されるか,見て見ぬふりをされるかいずれにしても, 一人ひとりが独自の思いをもった一個の主体として生きていることが配慮されず, また一人ひとりの心の動きが真正面から取り上げられることがないままに推移している事情にあることが分かりま

 

それは,子どもを「できる,できない」で見ることを助長し,能力面の育ちこそが発達だという子どもの見方を助長し,結局は「発達が早いことがよいこと」という錯覚を生むまでになりましたそのことによって,早く何かができるようにさまざまな能力が定着するようにと,大人は子どもをどんどん追い込むようになり大人主導の子育てが蔓延するようになりました

 

本来は.子どもの平均的な能力面の育ちの結果を表したものに過ぎなかった発達の目安が保育学や教育学によって保育や教育の目標と置き換えられたことが,こうした疎外を生む結果になったのです

 

保育の展開や授業づくりといった実践研究に関心を限局するのではなく,ゃはり子ども一人ひとりに定位して,子どもとはどういう存在か,遊ぶことの意義は何か.学ぶことの意味は何かなど,人が成長して一人前の大人になること(J)根本を丁寧に掘り下ifて.その視点から現状批判を行っていくのがいまの残念な情況を乗り越えるtこめの保育学や教育学の使命ではないでしょうか

 

これまで強い影響を受けてきた従来の発達の考え方を再考し,子どもを一人前の人間に育てるためにはというこれらの学問の基本に立ち還って,従来の保育内容や教育カリキュラムを抜本的に見直すだけの気概を示すのでなければなりません.そして,現行の保幼小連携や学びの連統性といった現場を大きく揺るがす問題に対して,学問の立場からその問題点をはっきりと袂り出してこの動向に対置し,この流れを変えるために学問として何
をなすべきかの気概を示す必要があります. 

 接続することが目的ではなく、どう接続するかが重要という捉え方。

システムに人間を合わせるのではなく、人間にシステムを合わせようって見方とも言える。接続できていればいいのではなくて、その接続によって何か良くない影響があるかをもっと見ようということだろう。

 

認知行動科学の知見が保育や教育,あるいは臨床などの実践の場に持ち込まれるときには決まって,人の行動を変容させる,人の情動を制御するといった,ある意味では人を操作して変えるという一方通行的な関わりを助長する動きを導いているように見えます(かつて行動主義のスキナーがオペラント条件付けをうまく用いれば.晋通の人間を大統領にできると豪語したことがあったように).

そして「悪しき循環が巡り始めている」と言う。

 

実際支援を受ける子どもや利用者本人のさまざまな思いは取り上げられることがなく.ただその人たちの行動をいかに望ましいものに変容させるか,その情障碍のある子どもや利用者本人に対してなされる, さまざまなプログラムに従っt~行動変容,ソーシャル・スキル・トレーニングによる望ましい行動の定着等々,行動の改善・変容に関する研究はうなぎのぽりに増え,それがそのままそれぞれの現場に持ち込まれ,現場の実践を実際に動かしています「こうすれば子どもは変わる」「こうすれば困った行動が減る」式の一見した分かりやすいプログラムは,メデイアの力も借りて,一挙に保護者たちの関心の枠の中に入り「保護者の喜びの声」というフィードバックによって,まるで,術前ー術後の変貌振りを告げるメデイアのコマーシャルさながらにそのプログラムがあっというまに巷に広がり「このプログラムを取り入れるべきだ」という主張が保護者の口を通して保育現場や教育現場に向けられるまでになりました

やはり、「人間とは?」にぶつかる話。

 

一人の人間が生きていくということは,障碍のあるなしにかかわらず,周りの人と共に生きていくということですそのためには,周りの人と関わり合ってお互いの心を通い合わせることがどうしても必要になります.望ましい行動の定着を図るだけの試みは, ソーシャル・スキル・トレーニングとは言いながら.そのような肝心の人との関係を作ることに真に繋がっているのでしょうかその点に鑑みるとき.外国製のプログラムを安易に取り入れたり.スキル・トレーニングの技法をマニュアル化したりして,それを安易に現場に持ち込むことが学問のあり方としてどうなのかという点も.是非とも吟味してもらいたいものだと私は思います. 

 ここの文を見て5分ほど黙り込んでしまった。

将来のため、大人になってから困る、社会に出てからやっていけない。

そんなの嘘だって思う。必ず、理解者はいる。

 

なぜ?と思うこと。

一人が泣いていて、こんなに人間がいて助けられないわけがない。

授業中に立ち歩く子、ふざける子、できなくてやらない子、強く言われて泣いてしまう子、強く言ってしまう子。なんでだろう?と考えてみてほしい。

心がある。忘れないでほしい。行動ばかりを見ないでほしい。

それじゃあ君たちはまるでAIだ。

その子にはその子なりの。人にはその人なりの理由がある。

理解してくれる大人を探すんだ。100%いる。絶対にいる。