再び麹町中に行きましたーハピペンです。
日曜10:00から……。
いいですね〜元気ですね〜。
……。
( ̄◇ ̄;)
いや、優先順位あってます?!
あんた大丈夫???
って感じです。
ただ、示唆はいただいた。
示唆はいただいた。
生かしたい。
まとめたい。
アウトプットしたい。
もげそう。
でも!がんばるかーーー!!!
120年前の教育システム
一斉指導は、120年前の工業経済で活躍できる力をもつ人間を育むために発明されたもの。
これは、統率の仕組みとして、管理には適しているが、そもそも「教育の原理」ではないとのこと。
本来教育は、知識のある人を囲んだ話し合いだったそうな。
その工業経済時代の名残がいくらでも現場にある。ありまくりである。
ただし、それは、「管理統率の原理」であって、「教育の原理」ではないのだった。
もちろん当時は、その恩恵だらけだった。
多くの人がほどほどに訓練された働き手となり、平均的な暮らしを手に入れた。
ただし、それも終わる。
なぜか?
不景気のせい?
中国に仕事をとられるから?
ちがう。
テクノロジーが進化しすぎてしまったのだった。
伝統的な学校
いわゆるこれまでの伝統的な学校教育で身につく力を3つで示していた。
- 記憶する力
- 繰り返し作業する力
- 指示に従う力
もうその通りとしか言いようがない。
そして、この3つに当てはまる仕事は、全て、AIが代わりにできる可能性が高いそう。
チェスのプロ、クイズ番組の回答者、運転、医療、清算、調理、ライター、セラピストなど。
教育を変えなければ、教師はAIを育てていることと変わらなくなってしまうのである。
テクノロジーは、2年で2倍に進化すると言われる。
10年後には、32倍。
20年後には、1024倍。
20年後には10年後の24倍の速さのテクノロジーがある世の中なのだ。
そのとき、世界がどうなっているかを、誰が予想できるか。
もちろん。誰もできない。
今に、肉体、認知、知的を使う仕事は、AIが自動でやってくれるようになるのだ。
このままでは、子どもたちはロボットになるために育てられているようなものだとも言える。
じゃあ、教育は、どーすんのよ?って話。
「ソフトスキル」を育む
従来の学校にある「記憶する、繰り返し作業する、指示に従う」力を育むのでは、これからの時代の中で活躍できるか分からない。
これからの未来で成功する人は、革新的な考え方をできる人だと考えられている。
そのために教育においては、「ソフトスキル」と言われるような、数値化できない能力、非認知能力を育むことが求められる。
(やってくる説明責任という課題もあるが)
その能力は、4歳児がもつような要素だと言う。
- 質問がたくさん浮かぶ
- 壁を越えられる
- 環境に適応する
- 失敗を恐れない
これらの能力をもったまま成長できた人が活躍して成功すると言っていた。
他にも、たとえば
- 自信
- 批判的に見る
- 協力
- 批判から学ぶ
- 耐える
- 時間
- 道徳
- 判断
など。
すべてのことは、
「観察→考察→記録→結果」
だという学びについての捉え方もおっしゃっていて響いた。
そして、面白いのは、こうした能力を育もうということは、事あるごとに掲げられているにもかかわらず、その学び方を大人は経験していないから、それが出来ているか分からないということだ。
だから、出来ていたとしても、それに気づけず、それを誉めることもできない。
それに「自ら判断する力」を育む、というわりに、今の教育環境は、判断の機会を奪いまくっていないかということも言われていた。
本当に。。。そうだよね。。。
すいません。
大学は子どもの将来を保証しない中で……
「親や教師が想像する型」を越えなければ、その子に未来はないのかもしれない。
映画に出てくる学校では、自分の成長についてみんなの前で語る時間があった。
そこで、とても賢明に振り返りをしてよくなかった点を話している生徒が映るシーンがある。
それに対して教師が言った言葉が印象的だった。
「それもそうだけれど、それは(ついこだわってミスしてしまうようなこと)、君の良さでもある。」
「君が君を失うことは、意味がない。」
とキッパリと言っていた。
学校はこれを忘れてしまいがちで「みんなと同じことができるようになっているか」を図りすぎる。
それ、置いておこう。
結局は
「君が君であること」
「その君の“良さ”を育むということ」
「その良さを掛け合わせるということ」
この感覚はインクルーシブ的なものだと思う。
やはり、インクルーシブ的な観点は、重要だと思わされた。
そして、詰め込んだ知識は消える。
今の自分が生きていて、役に立っている能力は、テストで問われたことで身についたものか。
そんなことはないだろう。
どうしたって、詰め込んだだけの学びは、そのほとんどは、忘れてしまうのだった。
「エンジニアリング」というよりも「ガーデニング」
映画の最後に、教育は、エンジニアリングというよりガーデニングという喩えがされていた。
人間は工業の言葉で扱うよりも、有機的な存在で成長し進化する存在なのだから、
「こうすれば良い」と、入力と出力が決まっているのではなく、植物がそれぞれ違うように、一人ひとりにあった栄養や環境条件などがあって、その都度調整していくものだということだった。
とても腑に落ちた。
もっと、目の前の子どもたちや、自分が生きている社会を見つめることが必要だと思った。
本当に考えさせられる映画だった。
おそらくいつも常に目の前に答えはあるのに、それをよく見極められないで困惑しているのだと思う。
私こそ、もっとたくさんの人に出会って、少しでも現在の社会を見つめる目を養わなければならない。
少しずつしかできなけれど。またそれを出力するセンスもないのだけれど。
それでも抗いたい。
「未来を幸せに生き抜く子どもたちを育む」ってことを、たくさん考えらた一日でした。
The Future of Work: Will Our Children Be Prepared? - YouTube
私より丁寧にレビューをしているkengobonbeiさんのブログ。