かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

検診と親戚の集まり

12月31日

午前中は検診で、黄疸を見てもらう。

この日数値が悪いと1月2日までは、帰って来られない。寂しいお正月になるか、ならないかの瀬戸際。

 

とにかく、日光に当てるとか、よく飲ませる、ブリブリさせるということだった。

どうなってもそれはそれ、と思うしかないと覚悟をしていたが、実際セーフとなると嬉しい。

 

お正月も家にいられることになった。

生まれて7日目でも、黄疸の数値が低くないことはある。9日目にして、正常ということもある。

 

ほぼ同時に来ていた、もう一人の赤ちゃんは入院になっていた。切なかった。

お昼は、妻の父が作ったスペアリブをいただいた。本当に店を開けるわと思う。

 

夜中には寝てしまっていて、起きると新年が始まっている。

 

1月1日

親戚がピヨ子を見にくるので、いろいろとざわつく。

 

とはいえ、ほとんど、妻の親がセットしてくださる。ああ。

 

「してもらうこと」に慣れていないからか、自分に何か執着があるからか、分からないけれど、リラックスできてはいない。血がつながっていないというのは、そういうことなのだろうか。気を遣わせてしまうという関係は、長くはもたなそうな気がして、なんともいえない。自分でいることが、不評であるってやっぱり生きづらいなあ。あとは、見えないステレオだね。結婚相手の親に「こうあるべき」というのに立ち向かうのが難しい。「私はこうだった」とか、「これぐらいはしてほしい」とか。感覚の違いを受け入れてもらえるか、こちらも受け入れられるかが鍵かな。でも、そういうの含めて「居る」ができていると有り難いのだけれど、なんとなく気になりはじめた今日このごろ。

 

ピヨ子はお疲れ気味みたいだ。連日たくさんの人に相手をしてもらっているということは、反対に刺激に対応しているということで、それはまあ疲れるのかもしれない。

 

妻も少し疲れている。ピヨ子が妻を苦しめるとしたら悲しい。力を合わせてやっていきたい。

 

年賀状を買いに行ったり、印刷したり、遅れての行動が多いのだけれど、仕方ないと言い聞かせる。

 

ピヨ子が他の人のところにしばらくいっていると、ジェラシーもなくない。新鮮な感情。面白い。こういうのは、後で本当にネックになりそうだ。今は、そういう感情もあったんだ、と素直に受け入れつつ、ピヨ子はピヨ子、私は私として考えられるとよい。まあ、とりあえず、それだけ、やっぱり好きだったり、こっちを向いていてほしいとか、特別な感を抱くのだろうね。本当は、ピヨ子が幸せならヨシなのに、期待があるのだよね。私は私だし、ピヨ子はピヨ子だしってやっていきたい。

 

ビールを買い忘れたということもあった。お陰様で開店してくれている薬局があり、助かった。スーパードライが売れすぎていて驚いた。

しかし、財布を忘れたと思って、一度家に帰った。親戚はすでに集まっていて気まずかった。

しかも、よくよくカバン中を見ると財布は忘れていなかった。なんとなく、気分がガタ落ちというか、メンタルが濁った沼のように感じた。揺らいだ。身体も揺れているのではないか、と思った。「地球とのズレ」数年に一度感じることがあるが、その感覚だった。地球の引力から放り出されたような気分。自分がここにいて、いないような気分。滞る。ハピペンは滞る生き物なのだ。それでもやっていけるというのが強みなのだ。だから、それに対して「滞らないこと」を求められると辛い。もてなすってことがそんなに上手くない。得意でないし、好きでない。そこら辺「してもらうことに慣れる」ということと関連する。でも、まあ、いいや。

 

自転車で外に出ると気持ちよかった。

そして、何もなかったかのように、そんなことは、過ぎていく。

 

忘れられないお正月ベスト3に入る思い出になる。どちらかというと、良い思い出がつくれた一日だったと思う。面白いね。生きるってことは。

 

どうすると「地球とのズレ」から解放されるかは、セルフケアなのだろうな、と思う。

  • 一人の時間
  • 人に会う時間
  • 話す時間

正月ってのは、この3つが脅かされやすいんだろうね。