まず、その年のテーマにしていた、これまでの「四字熟語」を振り返ろう。
2017年「歓天喜地」
やりたくないことをやらなければならないというドM設定で生きた。異動も、早朝からの学びも、土日をオフにしないことにもチャレンジした。いつもと違うことをすれば変わるという当たり前の真理を経験した。
2018年「不言実行」
いいからやる。やろうと思ったことを実現する。やりきる。という思いを込めた。それで、また随分遠くに異動した。しかし、できなかったこともあった。特にすぐ浮かぶのは、格闘技を習うこと。タフになりたいと思ったけれど、ランニングくらいしかできなかった。ただ、結婚するなどの人生の加速にはつながったかも。
2019年「安居楽業」
とりあえず、二年間疲れた。無理をしていた感覚がある。休みたい。安らかに。「する」ではなく「居る」ということを大切にしようと思った。そして仕事(業)で無理しない。気楽に、楽しむ気持ちでやる。だから、変なチャレンジ精神は持たない。そう思って年明けに掲げた言葉だった。しかし、あれよあれよと、またいばらの道へ、ジャングルへという感じで6年担任に。これで「安居楽業」を目指せってこと?それは、不可能なのでは……?と思った。ただ、これがあったから、ものさしが「安居楽業」にできて、無理しないということはできたかもしれない。結果、折れるということはなくやれているかもしれない。そして、2019年が終わった今思うのは、この一年は「安居楽業」に向かう年だったということだ。教採に受かったり、子どもが生まれたり、安居楽業に欠かせなそうな要素が集まった。
数秘術的にも7の年でお休みと内省がテーマと思って設定したのだけれど。そういう意味では「安居楽業」を掲げているのに、全然「安居楽業」にはなれません。神様、私どうしたらいいのでしょうか状態という感じでは、内省があったか。
2020年は?
今年は8の年で、9年周期のなかで、実ったものを収穫する年。8年前に何を撒いたか?というと、おそらく教職を初めたってことが当てはまる。
数秘術に合わせて人生を動かしたか。そうそうそう動けるものでもないんじゃない?と思ってもらうか。そう動いたから、人生が軌道にのっているのよと思ってもらうか、なんとも言えないが、そういうことになっている。私は9年周期の始めに、教職に就いて、今年8年目を迎える(来年は9で、終わりの年。一体何が終わるのかと思うが。ああ、育休に入るかなんかして、教職を一旦ストップしようとはしているわ)。
さて、今年の何を実りとして受け取ろうとするか。そんなテーマを掲げたい。平和とか、愛とか、関わりとか、そういうほのぼのしたものもいいけれど、こうなんかもっと気づかされるような、ハッとするようなものを気づかぬうちに受け取れているような感じだといいなあ。
ということで、goo辞書で、「見極め」と検索して出てきたこの二つのどちらかにしようと思う。
1.見性成仏
「本来もっている自分の本性・仏心を見きわめて悟ること。すべての人が本来的に仏であることが体感としてつかみうることをいう」
これいいな。悟りたいなあ。心を凪にして学級経営できそうだもんなあ。あと、一年の中で、体感的に「すべての人が仏である」って感じられるようになりたいよなあ。目指す価値ありそうな。おお。
2.熱願冷諦
「熱心に願い求めることと、冷静に本質を見極めること」
願い求める。実りを得る年に「願う」って相応しいだろうか。「願うこと」を獲得して終わらないだろうか。
うーん。でも、もうこれだな。
30分くらい、二つの四字熟語について思いを巡らせていたけれど、ピンと来たわ!
やっぱり、来年初任だし、その一年に「熱さ」って忘れたくないな。入れておいた方がいいわ。そして、「願い」ね。教育ってそういうところがあるし、「熱い願い」や「熱い理想」を持ち続ける、「熱い」ってことは鮮度もいるだろうし、それは、脳みそをアップデートする意欲にもつながりそうだ。
さらに、「冷静」に本質を見極めること。この凪的な心を持っていたい。「本当にそういうことなの?」と胸に問いたい。「なぜを7回」自分に問いたい。この辺りは、2019年の内省の自己とストーリーがつながっているようにも感じるし素晴らしい。そして、「諦」だ。これが、めちゃ大事だ。
音符 「帝テイ」 <神をまつる三本脚の祭卓> - 漢字の音符より
本当の意味で「諦める」ということ。それは、自分にとって必要かどうか見極める。それに、これまでの自分について、また自分が知ったことについて「つまびらか」に、言葉で詳しく伝える(伝えようとする)。それを意識できるようにする。仏にも関連しているしいいじゃないか!
ピンチの時に最後に助けになるのは、その年の四字熟語だ。それで、折れないで立ち上がれる。
2020年!「熱願冷諦」でやっていくぞ!!
余談
「全生全帰」という、全力で生きて仕事して、全力で早く帰る。みたいなのにしようと思ったけど、やめておく。なんかつまらん。そして、そもそもの意味は、「人の体は親から授かったものだから、一生傷つけないことが本当の親孝行であるということ」だし。これはどこかで子どもたちに使おう。
そして、お家の方には、「寸草春暉」で。「父母の恩・愛情は大きく、それに子がほんのわずかさえ報いるのがむずかしいことのたとえ」である。そういうもんなんすよ、と。
あと、何か「受け入れる系」も気にはなったなあ。