かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

後退はしていないか

まあ、後退はしていないかー。

 

4月と比べると気になることをいろいろ言ってくれるようになったしね。

 

そんで来週。

 

自分が背負っているものは、少しずつ目処が立ってきたかな。大丈夫かな。子どもたちは、楽しく過ごせているといいな。

 

時間さえあれば、もっとゆっくり見ていたいなあ。ゆっくりしていないから、育ちを追えなくて、苦しませているところもあるかもしれない。

 

「土日にキャッチボール練習しなさい!」とか言えないしね。もちろんやったっていいけども。

 

朝は、何を考えていたかなあ。

 

「社会に沿った生き方」か「人間らしい生き方か」どちらを伝えていくべきか。なんてことを考えていた。もちろん両方だけども。

 

そんな中、社会を強要すると、耐えられない子がいる。たとえば、ごく一部のある家の子が。それとは、反対に多数の「いわゆる社会」に耐えうる子がいる。

 

公式的には、人間らしさが先なんだろうなあ。それで、成り立った人が、社会を押し付けられても、自分をコントロールして、そういうもんだって適応できる。豊かに。

 

kindle unlimitedにある不登校本を見てみたが、親の対応に言及しているものしかなかった。家での充電次第なのだろうな、と思う。

 

すると「でも、家がしっちゃかめっちゃかでも、学校に元気に来て、給食を食べて、放課後は友達と遊んで大人になっていく子もいる」なんてことを言われることもある。必ずしも家だけではない、と。教師の力で、学校の魅力でなんとかできないか、考えろ的なことを言われることもある。

 

それは、ケースバイケースだろうな、と思う。

 

必要なことは、やっぱり「お家の方のケア」なのではないかと思う。さまざまな理由たちは、家に立ち入らせないための、自分と向き合わないためのカモフラージュなんじゃないかと。

 

一億総中流社会でなくなった今、学校のことをちゃんとやらないと将来困るよ!は、指導言にならず。「いいもん!別に将来悪くたって」という時代なのだ。そんなことよりも、インスタントな今の自分の感情が優先。自分の力で、自分の人生をよりよくしていこうなんてことはないのだ。いつも、誰かのせいにして終わり。

 

学校というなんとなく、自分以外のために過ごす場を乗り切るには、自分でいられる時間が家で必要になるようになったんだろうなあ。

 

社会を強いられることで、社会から遠ざかる子ができてしまう。悪循環。ここにメスを入れて好循環を生むことをしたい。

 

合氣道に行ったよ!昨日は、行けないだろうなあ、と思って結局行かなかった。今日も行きたくないなあ、と思ったけど、結局行った。なんだかんだ、朝から決めてんだよね。それで、行ってんだもの。

 

めちゃ晴れるんよなー。不思議。