かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

140|手遅れなこと

3回目の学級開きによって、だいぶ学級づくりのエラーが減ってきたと思う。

 

しかし、まだまだ、足りないところがいくつもある。子どもたちは、自分で考えてよりよくというよりは、どうしても大人からのインプットが必要で。

それによって、みんなのよりよい生活空間を作ることができるという側面がある。

(本当は「問い」を大事にすればいいのかもしれないけれども。)

 

何が足らないか振り返る。

  • 給食の食器を丁寧に戻すこと。きれいに残したものを取り除くこと。
  • 給食は基本的には全部食べなさいということ。無理はさせないが、基本は食べることとしておいた方がいい。頑張って食べると言う方が。好きに残せだと、食べれるものも食べないことが選ばれがちなように思う。別にオレの人生になんの影響もないけれども。あと、残食が少ない方が片付けが早く済む。
  • 牛乳パックを入れる時はカゴに揃えていれる。
  • 授業中の机上は使うものだけにする。黒板とノートで学ぶ際には、教科書はスッとしまう判断がほしい。
  • 5分休みには折り紙はしない。これは完全なインプットミス。
  • 床に落ちた物は拾う。これは、初めに禁止してしまっていたから仕方ない。
  • プリントは揃えて出す。
  • 人に手紙を渡す時は手渡しで、「お願いします」「ありがとう」の関係にしない?ということ。
  • 授業に遅れる子はろう下で待ち伏せて、「こら!」ってすること。
  • ロッカーの使い方、お道具箱の使い方。これは、今は浮かばないけれど、もっとよい方法がある気がする。
  • 鉛筆は基本的には家で削ってくることを伝える。
  • 集金は手渡し。

意外と今はこれくらいしか浮かばないや。

 

ちょっとしたところのつかえが気になっているのだなあ。そういうちょっとしたことだからこそ、毎日の中で気になるというのもあるかな。そんな簡単なことがちょっと変わればいいのに、なんだよ!と。イラつく。

 

ただ、ほとんど、申し分ないわけで。

とてもいいわけよ。

 

やっぱり、自分の児童理解と児童の自分理解されは、11月くらいに落ち着いてくるようである。そういう距離感のコミュニケーションなんだろうかね。面白い。気になる。

 

ちょうど、子どもとの距離が近づいたように感じて「おい」ってなり始めるのが10月ぐらいである。もしかしたら、それが関係するのかもしれない。オレが素になることに応じて、子どもも肩の力が抜けてよくなるだけなんだろうか。うーん。

 

じゃあ、もう少し早く私が肩の力を抜いて素でいれば、学級ももっと早くよくなるのかな?

 

そんで、たぶん、自分が肩の力を抜けないのは、「今年彼らを伸ばせるか自信がないから」なのだと思う。よって「親に批判されるのではないか」と懸念しているからだ。

だから、信用されるまでは(信用されていると感じるまでは)、肩の力が抜けないんかなあ。

 

そら要は、「自信がない」ってことなんだよなあ。だって、何が起こるか分からないんだもの。ってね、そりゃ200日近く顔を合わせていれば、そらなんかはあるわな。

 

その姿勢でいると上手くいくっていう感覚なんかなあ。なんなんだろうなあ。一度いつか「主」をやってみたいなあ。自分のフィールドになるとまたもう少し変わる気もするんだよなあ。責任を取れるところにいくと、果たそうとできるというか。その責任のツボみたいのが掴めると強いんだけどなあ。その点が支援は話し合っていろいろ決めていくから、動きやすかったんだよなあ。

 

今年は、初任として「中庸とか、バランスとか、妥当性とか」そういうものを掴みたいと思っていたけれど、その願いは誤りで、この仕事にそんなものはないんだなあとも思った今日だった。

 

最終的には、自分の力で、自分の解釈で、自分の振る舞いで説明して、理解を得て、対処するほかないんだよね。なんか、丁度いいところがあるのかと思ったんだけれど、それは、先生それぞれタイプによっても違って、その先生がその先生なりの言葉を吐くことでしか、この仕事の意味の辻褄は合わせられないんだよなあたぶん。人の関わりのあるところの問題は、最後には感情の問題になってくるからかな。

 

だから、もう少し、自信をもって、「自分は多少子どもを伸ばせる」って思って、肩の力を抜くのを早めてもいいのかもしれない。できるのか知らんけど、「自分が居心地のいい学級」を11月よりも早くつくれるようになりたい。

 

そのためには、もっと語りがいるのかな。もしかすると、「読み聞かせ」とかって話になるかもしれないな。