かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

217:これが自分か

なんというか、指導力のなさを痛感する今週である。

 

なんというか、結局、子どもを損得感情によって動かすことになってしまう。

 

なし崩し的に進めているところのあった自分が悪いのだろうな。こんなことなら、もっと作為的に「気をつけさせる」指導をしてくればよかった。

 

来年は厳しめでいこうと思う。

 

その方が力が付くように思うからである。

もちろん違う素地は育っていると思うのだけれど、仕事に合わないところがある。

この仕事はもっと管理的で、「評価」をしないとならない。それを担保してうまく立ち回ることができていないのだ。

どれくらい「アソビ」があって、猶予があるのか。そういうのが不明なまま進んでいるのでよくない。

 

そして、そのあやふやこそが、子どもを育てることができていないような気にもなる。

 

明日、またYPを取ってみようと思う。

それで、いくらか答えは出ると思う。

 

どうしたって、私がコントロールしている、私にコントロールされている、私がコントロールできている集団を安心と思うのではないか、と考えてしまうのだ。

 

今日は、年一イライラしてみた。

イライラしている自分にげんなりする。

疲弊する。これが嫌で、受け流していたのかもしれない。言い換えると譲るということである。

学級は、譲っても譲らなくてもいいことで溢れている。

 

ただ、この大変さを拭うには、譲らないをもう少し作らないとならないのだろうな。

 

「やらせる」が通用しない子がいる中で、それは悪手だと思うのだけれど。本当はクラス会議で拾い上げることもできなくないことなんだろうけどなあ。

 

私の困りは、誰にも拭われずに漂流し、私と共に海底へ沈んでいく。

 

何人かの思いやり溢れる子に「なぜ、私を助けてくれるのか」と。

それを聞いて癒されてもいいのかもしれない。

 

 

途中から、今日を木曜と勘違いしていた。疲れている。帰ってみると夕飯を食べたくない。寝たいとも思えず1時まで起きてしまった。疲れている。成績が引っかかっているようである。一つは、学習指導要領を見ること。あとは、仕込みをきちんとすることだ。評価のための下ごしらえをきちんとね。それが疎かだった。年間計画を印刷して、挟むこと。今回は仕方ない。

 

ああ、自分は頑張れていないのか、と悲しくなった。思ったような伴走なしなのだから、当たり前である。そして、それでも子どもたちはよくやっている。敬愛に値する。うん。