「長い目」。
で、結局、人は見れない。
人は「今」の虜になってしまう。
学校は社会の上位互換ではない。
実は、学校は社会の下位互換でもないのかもしれない。
学習指導要領も社会そのものではない。
それが出来ないことが社会から排除されることに直結することではない。
あくまで「教育する事柄」でしかない。
実際のところ社会はもっと寛容で、寛大である。受け皿があるものである。
それを迷惑とか、ないものにしてしまう社会と、今はかけ離れているのではないか。
取り締まりではなく、教育としてどう携わるかが鍵である。
その恐れは「社会で許されないこと」ではなく、お金を稼げないというところなのではないか。
社会で許されないよ!と凄む社会で許されないような指導がある。という話。