だから、インファイトしないってことかな。
私は、その距離感が心地いいんだろうか。
それでも、地道に変わっていく子どもたち。
今週、よくないということは十分わかった上で、休み時間を奪っている。これをやると、関係を崩すのではないか、と頑なに信じてやっていなかった。初めてやった。
でも、そのスリルが楽しくなってしまっているギャンブラーもいるのかもしれない。と、今日は思った。
期限であったり、引くに引けないというので、人は「闘争系」のドーピング的なやる気に作用できるのかもしれないな。
そういう手段を取るということは、そういう手段が有効な可能性があることを何となく見聞きして経験的に知っているってことなんだろうな。
そして、それは、単に「そこにあるつながり」を信じていないというだけのことなのかもしれないとも思った。
強く出ても平気なほどに、つながりはあるのだ。それを信じないからインファイトがない。
なぜか。
その根底には「欠陥・欠損」的な懸念、欠乏なのではないか、と昨晩うとうとしながら思った。
自分は至らない。価値がないって思いすぎなのだ。
でも、今年はそんなには「12のステップ」も開かなかった。ずっと自分でやれたって感じだ。神頼みで流すことは少なかったように思う。