かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

207:役不足

素晴らしい理念のことは、さておいて。

結局、集団生活(自分を越えた目標や目的がある場)ということは、一定の「従わせ」がいる。当たり前。ようやくそれをインストールしきれるかもしれない。

 

特別支援での自分をイメージして、それと対峙すると少し分かってきた。

「自分の」目的だったり、人生だったりを考えていく必要のあることに頭が慣れ親しんでしまっていたからかもしれない。

 

社会は「自分を越えた現実」として、既に、先に存在(君臨)している。少なくとも半分は、そこへの適応が求められるわけで、その「出来上がっている」目標に、いかに乗れるかを育む他ないのかもしれない。

 

いくら「彼ら」に寄っていったところで、そこには、また「他者と折り合いをつけた佇まい(自分やありのままを越えた態度)」が存在するわけで、自分を調整して、社会と調和しようとすることが強いられる。

 

それが心地よくなるように、いかに導けるかということを考えていたし、アドラーしかり、今思う解釈では、いかに「ありのままを善に書き換えるか」というような、儚く尊いチャレンジをしていたのではないか、考える。

 

これは、途方もない。だとしたら、フリーライダーしかり、概ね、居心地のいい、「やってくる目的」に従って過ごしてしまったり、自分を調整してしまった方が気楽である。

 

組織の中での主体性では、組織の好ましい時間や空間や人や物の使い方以上のものを発揮することはできないのである。

 

ちょうど今朝見た、大西拓磨さんの話がそれに近いと思える。芸術にはルールがあるということだ。与えられている「自由(発散)」は、あくまで「ある枠組みの中での自由」となる。他者を侵略しない、脅かさない自由ということである。

 

外にある目標は、自己を脅かす。それが嫌だから人は適応していく。適応しないには「特別」がいるのかもしれない。

 

話は変わって。

給食前にイライラすることがずっと多かったのだけど、そのある子らは「退屈」だったのである。

 

役を与えると、私は全くイライラせず、心地よく給食の準備ができた。

「役を与える」ということは、解決に有効である。関わりが変わるからね。

よい介入だったと思う。

 

 

204:水曜は勝てない?

なんとなく、もやっとする時間があった。

 

「座っている人は花丸です」と言ってみる。

まあ、そうすればスッと座るに決まっている。

 

にしても、よく聞けるようにもなってきている。感心するほど。音読もうまい。

「音読をするとスッキリする」とか言われる。お利口やな。「もう一回音読したい」と言われる。なかなかやで。

 

そして、ふと「水曜か」と思った。

 

「水曜は勝てない」。

今年のクラスはそういうっ気がある。

今になって思うと「時間割の問題なのだろう」と思うけれど、そういうもやっとした時間がある。

 

特段、それは昼休みの後に顕著である。

不思議なものである。

 

体育もうまくなった。合わせて楽しむみたいのができるようになった。

 

ドッジボールなんか、全員で参加して楽しそうにやっている。運動を楽しんでいるように見えて気持ちもほころぶ。

 

今日、ふと、「学校楽しい」の感覚があった。自分が低学年の時に、廊下でなんとなく「学校好きだなあ」って思ったような瞬間に感覚が似ていた。不安がない状態である。毎日似たように、メンバーとかかわって、次また次というように時間が過ぎていくような感じ。

 

イレギュラーの少なさ?

「見通しを示す」ではなく、「見通しをもたせる」、見通しをもつ、もっている。この違いかもしれない。

なんか安心感があった。その正体はよくわからない。

 

 

203:ひたすら追う

いわせんのブログを読んでいて、いわせんってすごいなあと改めて思う。

 

ずっと追っている。

ひむきに走っている。

 

自分はそれが苦しいって思ってしまう。

でも、いわせんは楽しそうである。

そこにプロを感じる。

 

私は、「っぽい」ことばかりだなあと思わされる。少しでもホンモノでありたいと思わされる。

 

そういう刺激になれたらいいのだろうな。

水紋のような反響のイメージ。

 

その在り方が、喚起するもの。感化するもの。

 

楽しんでいる人にはかなわないのかもしれない。

責任を果たすとか役割を全うするとかを飛び越えて。

 

彼らとの関わりを安心して楽しみたいものだ。平気で破られるルールを正すことに疲弊する。私の心理的安全性をもっと求めてもみたい。

 

 

 

 

202:変な天気の日

日中、強い雨が降った日。

 

どーも本調子でなかったように思う。

こういう日に無理は禁物である。

 

通常営業、平常運転で、やり過ごす。

そう。やり過ごしてしまった。

 

それでも、盛り上がろうぜ!みたいに変に鼓舞できない。100マス計算で、自身の伸びを感じさせるので精一杯である。

 

日経が3万円を越えたとか、越えないとか。

30年ぶりのことが起こる世の中で、そんなこと到底予測できなくて、その中で生き抜く力なんてあるのだろうか。と悶々とする。

 

その力で得られるのは、キャッシュのことなのだろうか。生きがいだろうか。学ぶ力なのだろうか。

 

いつも、我を振り返りながら、「幸せとは?」的なテーマをもって、自分を進化させていく力が育てたい力なのかな。

 

言い換えると、「学ぶことへの先入観」と言えるかもしれない。

国語を楽しいと思えるとか、算数を楽しいと思えるとか。その半分くらいは、点数を取れるかどうかで出来上がってしまっているような気もする。

 

席を変えたあの子は元気である。鋭いことを言ってくれるいい子だ。そんな風に、いろいろな子のエンジンがあるから、反応があって呼び水になって、教室が学べる。それがせいぜいである。全員が主体的にのめり込んで、「THE追求!」みたいな授業はなかなか起こせない。

 

私の力不足。いや、エネルギー不足だろうか。

あくまで練習としての読み。説明文を通じて、読み方を学んで、それを使って自分も書いてみる。どこまでいけば、その教材を学べたということになるのだろう。終わるころに「楽しかった」が残っているといいなあ。

201:良い学級になっていくことが今更では

なんていうのは贅沢なんだろうか。

 

幾分授業がマシになっただけなのだろうか。

 

「聴き合う教室」っていいなあと思って、学びの協同体を意識するも、マシになったと思えるのは、こんな2月の半ばである。

私のやり方では、1年間で関係を作って彼らをほんの少し知って終わりである。

活かせはじめたころには、お別れである。

そのためには、PAしかり、諸々の手法を用いて、4,5月でもっとそれぞれの関係、距離を詰めないといけないのだろうな。なかなかできない。

 

学習技能、聴き合いについて課題が残る現在だけれど、「それは、永遠のテーマだよ」と諭され、そこに向き合い続ける限りはなのとかやってもいい資格があるのだと思いな直させてもらった。

 

聴くことについて今更だけれど、少し別の指導言を入れてみた。

一つは、外在化で、虫を追い出そう・やっつけよう的なニュアンスで指導してみた。誰かを責める物言いから脱却ができる。虫のせいにしてしまった方が、関係によいだろう。

もう一つは、「聞こえなかったのか、聞いていなかったのか」を問い、メタさせること、自己評価させることである。「聞いていなかった」の場合は、「それは誰が直せることなのか」と問い、「そうだよ、Aさんならできるよ、そういう人になっていこうね」などと勇気づけを意識して言葉を添える。

 

そして、もう一つ課題がある。もう少しなんとかしたい課題が。

認知行動療法的なアプローチで見るといいだろうな。

アレントレーニング的な手法なんかを思い出す。懐かしい。

これは、ある程度、体の(人員の)余裕がないと難しいよなあ。

尊厳を損ねず、どう応じるといいのやら。

 

 

 

200:誰かにとっては生活の一部の中に漂う僕ら

片付け!!

 

だな。

 

これがでかいのかもしれない。

 

「片付け」で一生の幸せは訪れるのかもしれない。最近いくらかあたまが軽いのは、片付けのおかげなんだと思う。この先、部屋の本が片付けばさらに頭は軽くなりそうだ。

 

本を仕入れる量と出す量をコントロールしないと、だ。

 

年間の量が減らす方向で動いているといいな。

 

演じること

教師にはそれが求められているのだよなあ。

出来ていないというわけではないけれど、足りないとも思う。

 

子どもは私の鏡なのではないだろうか。

 

彼らには、今年した素晴らしい行いの数々を、身体にいれて、忘れないで、2年生になっていってほしい。

 

生活の一部に漂っているというのに、その中で演じることはできるのだろうか。すると、彼らに映る姿も演じるものになる。そうすると、彼らにも演じることが起こるのだろう。

教室にある生活者としての学び、学習態度。彼らにとって生活の中に位置づけられている学び。私たちにとっての彼らの生活の中でない生活の中に位置づけられている学び。この両方を担っている。

199:なぜ学校は8:30より前に開いているのだろう

店が早く開くのは店頭混雑の可能性があるときくらいだろうか。

 

おもちゃの限定販売なんかは、並んで少し早く開くよなあ。

学校ってのは、毎日そういう状態なんだなあ。

 

開いているんだから、行くしかないというような状態が苦しい。

 

足が重い。

 

それでも、一日乗り越えて、帰路につく。

 

どうなってくると、ロイロノートが使いやすいのか迷うなあ。あれは、ノートとして機能するのだろうか。名前をつけてノートだらけになって、カードだらけになってわけわかんなくなりそうである。思考のためのノートとしてはいけそうなのだけど、記録のためのノートとしては使い難いというような感じなのだろうか。

 

タイピングができるようになると、また違うのだろうな。うん。

 

これを読み始めた。

 

多くの学生を指導する中で、また様々な現場を経験する中で気がついたのは、結局、どんな状況にあっても楽しく学び続けられる人、前提を無視し、ストレスを感じず、常に柔らかな跳躍ができる人が強いということです。

人生は学校を卒業してからのほうが長いのです。そう考えると、学生時代を終えた後も、社会にいながら学び続け、学ぶことをライフスタイルとして、新しい知識を取り込めるか、新しい価値を提供し続けられるかが鍵になるでしょう。生活にどういった学びを取り入れていけるかを常に考えなくてはなりません。

重いなあ。生活で目一杯とどうしても思ってしまう。

動線に、予定にどう半ば強制的に『学び』を埋め込むか」ということだよね。「常に考え」なければ。常に悩んでいるだけでね。うん、考えないとね。

 

 

198:解決はどう起こるか

今日は、「解決できるか分からないなあ」と思いつつも、心の底の底では「解決はどうせ起こる」という目線で一日を過ごした。

 

結果、「解決は起こる」。

これは、起こしているのだろうか。

もう、天気のように風まかせで偶然に、でも、今日が晴れなようにある部分においては必然的に起こっているのだろうか。

 

相手の思いを想像する。

何が引っかかっているのかを想像する。

その想像が実際に近いところに寄せられれば、思いを拭うことができる。

問題は解決し得る。

 

大きく括れば、問題とは「不安」である。

 

これは、裏を返せば「愛情」でもある。

 

その愛情に大きく頷き、希望を感じられた時、解決が起こるのかもしれない。

 

希望を感じてもらい、希望を感じもする。

誠実に。精一杯に。

 

今回は、私が希望を感じた。美しい心でいた。そういうことから、解決は起こるのかもしれない。結構、クッションを気にして話もしたってのもあるか。

 

また、それは、「信頼」とも言い換えられるかもしれない。すべては信頼に値すると思えるなら、問題の行く末を、相手に委ねて、解決を起こすことができるのかもしれない。彼らには解決する能力があると。彼らには解決する十分な準備と心の用意があると。また、そのための能力がすでに備わっていると信頼するのである。