かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

207:役不足

素晴らしい理念のことは、さておいて。

結局、集団生活(自分を越えた目標や目的がある場)ということは、一定の「従わせ」がいる。当たり前。ようやくそれをインストールしきれるかもしれない。

 

特別支援での自分をイメージして、それと対峙すると少し分かってきた。

「自分の」目的だったり、人生だったりを考えていく必要のあることに頭が慣れ親しんでしまっていたからかもしれない。

 

社会は「自分を越えた現実」として、既に、先に存在(君臨)している。少なくとも半分は、そこへの適応が求められるわけで、その「出来上がっている」目標に、いかに乗れるかを育む他ないのかもしれない。

 

いくら「彼ら」に寄っていったところで、そこには、また「他者と折り合いをつけた佇まい(自分やありのままを越えた態度)」が存在するわけで、自分を調整して、社会と調和しようとすることが強いられる。

 

それが心地よくなるように、いかに導けるかということを考えていたし、アドラーしかり、今思う解釈では、いかに「ありのままを善に書き換えるか」というような、儚く尊いチャレンジをしていたのではないか、考える。

 

これは、途方もない。だとしたら、フリーライダーしかり、概ね、居心地のいい、「やってくる目的」に従って過ごしてしまったり、自分を調整してしまった方が気楽である。

 

組織の中での主体性では、組織の好ましい時間や空間や人や物の使い方以上のものを発揮することはできないのである。

 

ちょうど今朝見た、大西拓磨さんの話がそれに近いと思える。芸術にはルールがあるということだ。与えられている「自由(発散)」は、あくまで「ある枠組みの中での自由」となる。他者を侵略しない、脅かさない自由ということである。

 

外にある目標は、自己を脅かす。それが嫌だから人は適応していく。適応しないには「特別」がいるのかもしれない。

 

話は変わって。

給食前にイライラすることがずっと多かったのだけど、そのある子らは「退屈」だったのである。

 

役を与えると、私は全くイライラせず、心地よく給食の準備ができた。

「役を与える」ということは、解決に有効である。関わりが変わるからね。

よい介入だったと思う。

 

 

197:『インクルーシブ教育を通常学級で実践するってどういうこと?』

今、通勤中に目を通している本。

 

「インクルーシブ」というブラックボックス的な言葉には、多様性が内包され、ブラックボックスしかりブラックホールのようだ。と改めて思う。

 

インクルーシブや共生社会について考えることは、それぞれのどんな「観」も「ま、インクルーシブ」ってことで飲み込んでいく。

 

現場の肌感覚では、まだ、過渡期だな、と思う。

 

とりあえず、「インクルーシブ教育」に関して言えば、私は「18歳のとき」に「どうなっているか、どこにいるか」を目指して、学習を積み重ねていくイメージをもっている。

 

その子の願いスタートでもいいし、通常発達と同じに行うにはでもいいし、まず居ることや関係構築を図るでもいい。

 

ただ、どうしたって、時間は過ぎていく。ということだけが課題である。

 

その課題に対して、できることを「合意」しながら練っていく。さまざまな人々の歴史をもとにカリキュラムを仕立てていく他ない。というイメージである。

 

その子はどこでどんな風に生きていくのか。それだけである。

 

目下、自分のインクルーシブは、さまざまな大人も包含するようなものでもありたいね。

 

 

 

いい日だ

久しぶりにクラスだった。

よくないことがなく、終わる。

 

今年度は、絶対ないんだろうなあ、と思っていた、「先生、おかわりしますか?」という気配り。嬉しかった。セレクトを両方よそってくれて、ご飯を増やしてくれた。一生忘れないと思う。

 

子どもたちの雰囲気が丸い。ギラついてない。はっきりとそう感じた。違いはなんだろうなあ。

 

席をコの字にしたってのがあるかな。

意見を交わしやすくなったと思うんだよね。

 

当たり前なんだけど、意見交換って、まず、仲のいい子と楽しんでから、いろいろな子に広げていった方がいいのかもね。

仲のいい子とのやりとりの中で、似ているとか、同じとか、違うとかって楽しさに気がついて、じゃあ他の人は?ってなった方が自然かもしれない。

 

とことん、濃い仲で交換して、停滞や低迷を感じたら、別のグループの子たちと交換するって方が、いろいろな子と学ぶ意欲の底上げができるかもしれない。

 

ただ、そのためには、個人がそれなりに考えられるようになってからじゃないとダメだろうね。顔色見て、迎合の連発で終わるんじゃ困る。自分の頭で考えられるって前提がいる。そんなのをちまちまとあっちこっち気にしていたら、こんな時期になってしまった。

 

でも、感覚でしかないのだけれど、「自分」の考えを書き始めたな、という感じがする。授業で意見を聞くのが楽しみになった。

 

朝は、月曜日しなかったことをいろいろと悔やんだ。子どもへの連絡が不十分だったことや、体育の授業の流れもイメージがもてておらず心配だった。

 

でも、そんなのは、全部飛び越えていく。

どれも「大丈夫」で終わる。

 

できることをした。耐え忍ぶ時間もあるにはあった。しかし、それは、子どももフォローしてくれる事案だった。私は、私をやっている。なるべく誠実である方で、粛々と自分でいることを選んでいる。

 

そういえば、子どもたちが「自分が計算が速くなった」と自覚していた。成長を感じられたなら嬉しかった。同じ計算をコツコツと繰り返すことで、頭の回路は確かに太くなるようだ。

 

 

今日は、他学年の補填にも入った。荒れていた、と思う。ストレスを感じたし、やりづらかった。特別支援脳フル回転だった。

 

「⓪座る」と板書した。

「座れる子から座ろうー」と言った。

「すでに座って準備している人もいるんだねーやるなー」と言った。

 

うるさかった。

「集中すること」と「一度に一つ」を伝えた。

 

「文字を書くときは、足を床につけるといいんだよ」と言った。「やるぞ!」という気持ちの子が増えた。「今、足をつけるだけじゃなくって、グッと椅子を机に近づけた子もいるね。自分で考えて、よくしようって思えてすごいね」と言った。

 

うるさい子には、「書き始めたじゃん」とか「結構いい字、書くじゃん」とか「今黙ってやれていたね」とか、適当に刺激しておいた。

 

結果、一番うるさかった子二人は課題が終わった。黙っていて、課題が苦手な子は、赤ペンで手伝ってできるところまでやった。

 

一番課題が苦手そうな子は、静かにできないなりに頑張っていた。

 

静かに頑張り続けている子たちもいた。この子たちを絶対に見放してはいけない。志水先生の丸付け法で全員に声をかけていった。

 

「残り10分!どこまでやるか決めて、できるかどうかやりなさい」と言った。自分なりにここまでと決めて向かっていっていた。一人がスモールステップで目標を宣言し、終わると「終わったから、あと一つー!!」というノリでやっていた。一番うるさくて、机が曲がっていて、机の上が散らかっている子だった。

 

途中「お話ししている子は、先生がぎゅって抱きしめにいっちゃおうかなー」と言って、やっぱり口を開けるので「見にいっちゃおうかなー」と言ったら、その子は喜んで立ち上がってしまった(失敗、失敗)。

 

あとは、私は文集を読みたかったので、静かに出来る人は静かにして、私は私の仕事がしたいから、なんて言ったりして、口を閉じることを促した。

 

ただ、シーンって感じを作るまではいけなかった。シーンは、4分くらいだな。いつも怒鳴られているクラス。その先生がいない時間。大声なしの工夫ではそこまでしかできなかった。まだまだ修行がいる。この子たちを一年持つとしたら、一体どんな工夫で育てていくのだろう。どう乗り越えていくのだろう。ただ、リソースはあるだろうね。一番うるさい二人が早く終わったから、お互い間違えたところの何が違うか言ってやってって言ったら、めちゃ熱心に伝えていた。自分のが出来る的な競争心も煽りつつ、いくらでもそそのかせば、動くかもしれない。

 

そう、彼らは、気持ちよく伸びたいだけなのだろうね。成長したい彼らに適えば、万事うまくいくのだろうなあ。課題を終わらせる伸びたさに感服する。

 

不時着【金曜日】

とりあえず、地面にはいる気がする。

 

今週は、BUMPの新譜も出たし、なんやかんやと気が紛れるというか、少なからず人生に彩りプラス1状態だったのだけれど。

 

CDを読み込む元気もないくらい、ぬへーって感じである。

aurora arc (初回限定盤A)(CD+DVD)

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綺麗なパッケージだこと。

 

楽しい日々はあと4日で終わる

こんなに懸念のない日々を過ごしちゃって悪いなーって感じだ。

 

課題は全部こちら側のもの。

子どもをコントロールしないで、コントロールすることに慣れたのかな、と思う。

 

給食の挨拶前に多少「わー」っとしていても、

「挨拶する人は口を閉じましょう」ってつぶやくとスッと静かになる。

 

つまり、気づけていないだけのことに、いちいち「やいやい」言わずに、動いてもらっている結果なのだろうなあ。

 

大変授業がやりやすいのです

やっと、慣れてもらえたのかな、と思う。

 

次回の授業で使いたいような資料を偶然「家庭学習」で用意してくれていることもあり、嬉しい。

 

子どもがもってきたリソースを、また子どもたちに返して拡散して、学びの相互交渉みたいのが増えるといいなあと思う。

 

それだけ私が教えられることが少ないってことでもあるかもしれない。

 

同僚の授業を見る

今年度、初めて「空き」に次のことに追われずに、「他の人の授業を見る」なんてことができた。

 

楽しい。面白い。

自主的な参観の方が、学びたいことに目星を付けて参観できて良い(当たり前か)。

 

一番の気づきは、「タイプ違いで、用いる言葉が全然違う」という良さだ。

 

雰囲気や授業の流れ、何をどう押さえるか、そうしたことがすべて違う(これも当たり前だな)。

 

同じ入御の場所をやっていて違いを見られたのが面白かったかもしれない。

 

その授業での「目的」にもよる。

 

たとえば、

  • 「点数」なのか
  • 「わかる喜び」なのか
  • 「できる喜び」なのか
  • 「友だちと学べる体験」なのか
  • 「ノートテイク」なのか
  • 「自分で考えること」なのか
  • 「自分らしく学ぶこと」なのか

まあ、多方面から、「その時間に身につけさせたい力だろ!」って怒鳴られそうだけれど、ハピペンは、あまりそこに躍起になれていないや。

 

「点数」や「わかる」、「できる」に寄っていくと塾っぽくなっちゃうんだよなあ。教師様の授業っていうかね。私の声を大切に聞き逃さない時間というか。先生様がいて、次に君たち様がいるというような。

 

私は、そういうリーダーシップを取りにくいから、関わり方をそうでない方(先生様でない方)にしてるのだろうけれど。

 

たとえば、自分が自然にそこにいて居心地がいいってことは、ある人にとって居心地がいい可能性がある。それに寄っていっても構わない。

 

ただし……は、あるだろうが。

 

ただし……

私の給料はどこに発生しているのか問題が浮上する。

 

学力向上だとすると、私の立ち方は課題が残るだろうなあ。

 

まあ、そういうのって3月まで分からないのだけど。

 

それぞれが居心地のいい方へ、ニーズには応えようとするとして。

 

まあ、Cの子が気になってはいるのです。なんとかしたいな、と。どこから立て直すか。かけ算がダメだったら、その場で九九を言わせてりゃいいのか。いや、違うだろうなあ。なんて思うからミスリードが始まるか。

 

目から適切に情報をゲットしているかの方が気になっている。うーん。読む力……。

学ぶことが大好きになるビジョントレーニング〈2〉見る力をグングン伸ばして楽しく学習

学ぶことが大好きになるビジョントレーニング〈2〉見る力をグングン伸ばして楽しく学習

 

 

ああ。

夏休み、100マス計算は出そうかな。

かけ算……。

 

成績は、とりあえずがんばった。不時着。

意外に思われるかもしれないが

久しぶりにほんの少しだけど、特別支援観について書く。

それと雑記です。

意外に思われるかもしれないが

今日、その「子」を見るというよりも、その「個」を見るという方が適切だなあと感じた。

 

支援級の子が通常級に来て絵を描く。Aさんとする。

おそらくだけれど、通常級の子たちは、Aさんをどう扱うか私を査定している。

 

たとえば、

  • その子に許容的な関わりができるのか
  • その子なりの知能に対する扱いをするのか(年齢不相応な子ども扱い)
  • その子を制御できるのか
  • その子を学ばせられるのか

などなど。

 

Aさんは案の定、静かなタイプというわけではなかった。

周りの子もAさんをうるさがる(そして、その子はたしかに周囲を不安にさせるような声を出す)。

ただし、それは、周りの子がうるさいからであって、周りがうるさかったり、口が悪かったりするのを聞くと、その子もうるさいという印象を受けた。

だからと言って、まだ関係がしっかりできているわけではないクラスの中で、ある「個」のために協力を求めるのは、危険だと思った。従ってくれたとしても、子どもたちが心の中で思うことは「だってAさんもうるさいじゃん」である。私がいくら「いや、だから、お前らがうるさいから、Aさんもうるさいんだよ」と唱えたとしても無駄だ。

 

私は、まず、通常の学級の番人として、Aさんに接してみる。

試みその1は「呼んだら来る」だった。

教室の一番前から、教室の一番後ろにいるAさんを呼んでみる。

Aさんは気づいている様子だけれど来ない。

声で呼んでも、手招いても、文字で見せても来ない。

 

そうなると、周りの大人は、たくさんしゃべって動かそうとする。身体に触って動かそうとする。

しかし、Aさんは、それを拒否する。

 

もう少し寄り添って観てみることにする。

何かしらは動いていていることが分かる。

そして、工程の違いだということを直感した。

 

大人の方では、

  1. 描く絵を取りにいく
  2. 絵の具の準備

という流れを勝手にお膳立てしているのだけれど、

 

Aさんなりに、

  1. 絵の具の準備
  2. 描く絵を取りに行く

という流れを決めているか、そうしたらやる気になったか分からないが、すると動いた。

 

発語がないから、「こちらがAさんを分からない」ということを「Aさんは分からない」と転移して、先回りしようとするのだった。

 

Aさんなりに動いていることがよく分かったので、あとは信じて託すことにした。

作業が始まるとAさんは静かだった。

 

そして「悪行はパートタイム」ということがよく分かっていたので、静かな瞬間をついて、「今、静かにみんな集中してやっているね」と言った。Aさんも含めてというニュアンスだった。

「Aさんがいようがいまいが、君たちは集中することができます」という言祝ぎ。

そして、もう一つ、Aさんが集中しているということが、一つ基準になるかもしれないと言ってみた。

その時、みなさんの声の大きさは適切という可能性があるね、と。

 

意外に思われるかもしれないが、支援の子たちが通常の学級に来たら、「指示に従えること」が重要だと思っている。この先の進路的に必要な能力だし、通常級の子たちが不安にならないために必要だと考えているからだ。

しかし、通常級の子どもたちが寛容でその子の意志をどうすると感じ取ったり引き出したりできるか分かっているか、その子がそれなりに自分のペースで活動できる子であれば話は別だ。

今回のケースでは、後者が当てはまる。「指示に従う力」は育っていなかったか、指示に従いたくない年頃なのか、信頼関係の不足なのかは分からなかったけれど、その子は適切な環境と待つことで、活動に参加することができた。ほぼほぼ、ある程度自分の力で。

 

それにしても、その「個」を見誤ると、ミスリードだらけになると思う。

本当はできるにもかかわらず、その「個」の考えに気がつく前に大人が手を出せば、毎回、その「個」は、できない子ということになる。その「個」が良さを発揮していることに注目してそれが周りに伝わらなければ、その「個」は、いつも指示に従わないコントロールできない脅威ということになる。

どう動きたいのかを感じとったり、できるだけその「個」の意志で動き出せるかをどんな風に促すかを検討し続けたり、リフレーミングしたりして、その「個」理解を拡張したり転換したりすることで、その「個」が通常の学級で安心して存在できるのだろうと思った。

 

「指示に従う」子でないと、不安になるっていう、マインドセットがなんなん?って正直思うけどね。自分の感覚も含め。そもそもの前提が間違っているような気がする。Aさんが「指示に従わなかったから」改めて私の学びになったと思う。

 

結局、「その子ではなく、その個を見ること」。そして、「活動を進められるように、環境として何ができるかを考える」ってことだ。ちょっと浅いまとまりだけれど、時間がないのでここまで(ああ、本当に大人の悪いくせだなあ。時間がないから多数決で!みたいな)。

 

研究会

今日は自治体の研究会。今年はこれまで働いた仲間のいる研究会に参加できていて楽しい。

 

学びにもなる。

 

よく会の内容が組み立てられていて楽しい。

第一線で実践され、実績を作っている方が講師として来られているからかもしれない。

現役で学び続け、実践するって大事だ。

 

肌で感じている課題を、どういう手立てで乗り越えるか。それが楽しいと思えるうちはこの仕事を続けられるのだろうと思う。

 

のんびり絵を描いている暇もないのさ

でさ!

結局、子どもたちめちゃ楽しそうに絵を描いてはいるのだけれど、時間がないよ!なんでこんな急かして絵を描かせなきゃいけないんじゃーーー!!!

194日目:わたしは少しは「うまい」らしい

生まれてから一番幸せだった日の翌日のハピペンです。なんとか、この忙しい中で式を挙げることに成功。冬休みを投資した「自作のプロフィールムービー」も悪くはなかったらしい。本当に3ヶ月半ほど絞りとられたが、よく乗り切ったと思う。のど元過ぎればってやつで、今では懐かしいくらいだ。あの日々すら愛おしい。そもそもの挙式までの最短感がやばい。これっぽちも猶予がなかった気がする。そのくせ、2週に一片「パセージ」にも顔を出しているので、超超超超貴重な土曜を一日それで潰しているのだから。でも、本当によかった。好きな人しかいない空間。心地よすぎた。二度とないかもしれないけど、ずっと胸に残って、この先一生、ピンチの時は、あの日を思い出せれば脳が喜ぶに違いない。そんな日を手に入れられたことが嬉しすぎる!!と初っ端から、関係ないことをつい書き出してしまった。

 

巡回相談

きちんと駆使することで、学校内やお家の方との連携を強め、その子にかかわる大人も、その子自身をも適切な、その子に合った指導によって、幸せにすることが可能になるかもしれないチャンスだ。

 

久しぶりのケース会的な時間は心地よく、懐かしく、ちょっと気持ちがハイに。

専門家からの学びは楽しい。そうした人のもつカウンセリングマインドも好きだ。どういった角度で示せれば、みんなが動き出すか、そういうのを考えて策を練っていて素敵だ。盤上を俯瞰して、詰みに迎えそうな手を探る。

 

そんな中で、「わたしがうまい」という話をしてくださった。もちろんリップサービスというか、私へのケアなことも分かっているでも嬉しかった。この学校に来て、はじめて、支援的な振る舞いを誉められた。私自身は、自分にある支援的な振る舞いとそうでない振る舞いというのを分けているわけではなく、今年度集団を見るようになって、そういうのは薄れたのかな?なんて思ってもいたのだけれど、自然に残っていて、身についているようで、これまでの子どもたちに感謝したくなった。

このじぶんのもっているものをもっと信頼したいなあ。

 

支援のない学校

支援のない学校の弊害は、支援の見方・考え方で子どもについて語られない点だ。

個人的に今、パッと浮かんだのが、支援がいいのは「合理的配慮」があることだと思う。その子のために、その子の周辺にあるものを生かして、過ごしやすく学びやすくなってもらおうってものだ。

これのいいところは、「その子は悪くない」という前提を作れるところだ。つまり、大きな枠組みで言えば、子どもの問題とされるような行動を「環境因」で捉えて、解決志向ベースで考えることができるということ。

 

これがないと、子どもの問題行動は、その子自身か親かといったものの問題とされ、いかに「良くなさ」を伝えるかというよな話し合いになってしまいがちだ。

 

この先にあるのは、下手をすれば学校不信である。それならまだいい、学校に行かなければいいだけだ。問題はさらに下手をすると人間不信にもなりかねないというところである。

 

問題があると見受けられる子は、その子もまた困っている子である。「ちゃんとしなさい!」と思ったとして、その子こそ一番「ちゃんとさせてほしい!」と思っているのだから、それは、周りの大人たちの仕事なのである。

 

「支援がない」ということは、「配慮しなくていい」という文脈に置き換わりがちで、自分以外に変わることを強いる危険性があって脆い。

一部を肯定するために、一部を否定するシステムは危険だ。私たちがシステムとして君臨して、それに適合しないから問題視するのではなく、その子がそれで幸せになり得るのかを検討して、いかに自分は悪くないかなんていうどうでもいいことは語られない、人思いの場所で働きたいわね。

144日目:暴力を止めるステップ【現在:8ステップ】

昨日のミスがどうなっているのか分かりません。一応子どもはいつも通りだった。感謝です。ハピペンです。

そう、どうしたって子どもはいつも通りで驚く。今日は、うまくいっていないなあ、と感じることはなかった。逆にふわっとしていて、なんとなく胸が騒ぐが、気のせいなんだと思う。気になったあれもこれも的中しない。それなりの心構えでおそらく乗り越えられるはず。

 

暴力を止めたい!

すみません。ピタッと止められていないです。上手くいかない。子どもたちの方で対処が上手くなっているとは思うが、これで逆にいいのだろうかという気もする。しかし、そうやってやりくりしていくものなのだよね。きっとだけれど。たとえば、あの子で失敗のようなコミュニケーションをして、仲が悪くなってしまって、次から気をつけることで、仲良くいられた。そういう相手って一人くらいいるのではないだろうか。生きていく中で、交友関係を失うことってあるはずだ。それが無いように、続くように育てるっていうのは、この世にないものなのではないかと思う。

 

というわけで、個人的に試みてい5ステップを、書き出す。

 

  1. 口頭などでの注意(文字や絵で見える化して指導することもある)
  2. 話し合いによる注意(当事者間の願いなどを伝え合い抑止につなぐ。スケーリングなども使って、暴力の度合いの変化を数値化する。1週間ごとに経過観察したことについて話し合う場を設ける。)
  3. タイムアウトなどの注意(体で妨げる注意)
  4. コミュニケーションへの介入(2もコミュニケーションの方法について介入しているが、より大胆に介入する。関わらないでみるなど、これまでと真逆のコミュニケーションを提案することもある)
  5. チームで抑止する(どうすれば減るか起こっている事実をより多くのメンバーに伝えて、抑止してくれる人を募る。その中で当人が抑止されてもいいと思える相手を選んでもらい、抑止の目を増やす)

今、5ステップ目を試みている。幸い11月半ばまでこのステップで、経過を見てきて、暴力が減りはした。しかし、まだ感情が揺さぶられると起こることがある。ふいに移動して暴力沙汰になることがある。それを防ぎたい。チームによってメンバーが増えたことで、抑止力は高まったように思う。どうしても自分だけで授業をしながら抑止することが難しかった。今日見ていても3度はメンバーが活躍してくれている時があった。

6ステップ目は、まだない。

【NEW12/3:6ステップ目】

【NEW2/26:7ステップ目】

  • 周りが育つことによる友だちの介入(遊び相手の変化)

この構造は、関係を変える。これまで冷戦状態だったものを再び別のステージに上げる。ここに来て、問題の見え方も変わる。ということは構造の見立てが変わる。抑止力になり得る。

【NEW3/4:8ステップ目】

  • 特定の関わり時への介入

暴力が起こる時がさすがに限定されてきた(目的や誘発する構造が見えてきた)ので、そこへ介入する。やはり、厳しくやきつく注意しても変わるわけではなく、刹那的に権力で抑止したとしても、それは次への再現性がひくいだろう。何がそれを起こしていて、どう自ら止めていくかを考えたい。が、環境因を変えるのも手だ。暴力が起こる条件のうちのどれかを変えてみる。それが抑止につながるはずである。たとえば、金曜日遊ぶとケンカになる。そんなことがあるかもしれない。疲れもあるからといったちょっとしたいつもとの違いによって。であれば、遊ぶのを火曜日に変える。そうした少しの変化や手続きの違いで暴力を抑止することができる。

しかし、この8ステップ目までいくのが、簡単ではなく、その現象に携わるいろいろな人の考え方や価値観があり、混線する。起こっている暴力が多様な場合、ある指導で止まる暴力とある指導で止まらない暴力があり、それを「暴力」と一緒くたにすると収まりにくくしてしまう場合がある。

たとえば、もっとも抑止されるべき暴力から取り掛かるというのがよいと考えられる。そこを見誤ると苦しい。たとえば学校であれば、お家の方から連絡が来たものの優先順位が上がる。それは緊急度が高い。ただし、真に緊急度や重要度の高い暴力があり、そこを解決することで、他のシーンでの暴力が減る可能性がある。もう少しざっくりと、緊急と重要でもう少し分けてもいいのかもしれない。

 

同時進行で、ABA的な指導(不足学習、未学習、誤学習なんかに働きかけhttps://www.happypenguin.net/entry/2017/11/08/%25E3%2580%2590%25E3%2580%258C%25E8%25AA%25A4%25E5%25AD%25A6%25E7%25BF%2592%25E3%2580%258D%25E3%2581%25A8%25E3%2580%258C%25E5%25BC%25B7%25E5%258C%2596%25E3%2580%258D%25E3%2581%25AB%25E3%2581%25A4%25E3%2581%2584%25E3%2581%25A6%25E3%2580%2591%25E3%2581%259D%25E3%2581%25AE%25E9%2583%25BD%25E5%25BA%25A6%25E6%258A%259C%25E3%2581%2591)を入れたり、SSTを入れたりしようと考えている。そうして、減っていくといい。ただ、そういう時期なのだとも思う。この先、学年を重ねていく中で減れば御の字である。それもすべて、クラスのメンバーのおかげと思う。すばらしい子どもたちである。

 

参考

 

 

「みんなの学校」の感想【記事まとめ】

「みんなの学校」を見た感想や「みんなの学校」について書いている記事のまとめ

 

「みんなの学校」を見た感想【一回目】

inclusive.hatenablog.jp

inclusive.hatenablog.jp

inclusive.hatenablog.jp

inclusive.hatenablog.jp

inclusive.hatenablog.jp

 

「みんなの学校」を見た感想【二回目】

inclusive.hatenablog.jp

inclusive.hatenablog.jp

inclusive.hatenablog.jp

inclusive.hatenablog.jp

 

 

「みんなの学校」について書いたもの

inclusive.hatenablog.jp

 

 

inclusive.hatenablog.jp

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「みんなの学校」は、本当に魅力的だ

 

 

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