かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

84日目:困っている人を一番に考える集団の作り方

脳疲労、No HERO、ハビベンです。もう私なんか便よ、便。。。

自分で言っていて虚しすぎる!気を取り直して!ハピペンです!

 

模擬授業を考える日々ー。苦しむー。のたうちまわるー。もういやー。

 

キラキラした人間でいられません。

 

ただ、お家の方々からもらった言葉を思い出す。

 

やはり、合う人は合う。

どんな人間にも少なくとも2割の合う人間がいる。

 

たまたまそのコミュニティで、8割の人間ななれなくとも、それは、あなただけの問題ではなく、そのコミュニティが合っていないだけ。

 

だったら、合うコミュニティに飛び込んだらいいさー、そしたら8割の人ともコミュニケーションをして、楽しめるかも!!

 

強がりかもしれんが。

本当は誰とでも、お近づきになりたいわよ。

 

それでも、一部のお家の方からは支持される。

 

毎日の学級通信に「うん、そうそう!」と共感して唸ってくれているらしい。

 

将来先生になりたいという子どものために「全部ファイリングしています!」という人。

 

もし今のクラスが一番よかったってこの先なったらどうしようと心配される方。

 

成長を感じて驚いていると言ってくださる方。

 

とにかく、

  • ありのまま
  • その子らしく

学校を使って楽しんでくれているようだ。

 

神経質さ、不安が少ない様子。

 

自分を成長させる方へ、自分を主体的に生かしてくれているのだと思う。

 

いろんな人がいる。

好きな人も、嫌いな人も。

 

でも、これは誤り。

 

いろんな「人」がいる。というより、いろんな「とき」がある。その人のことを好きじゃないと思うところがある「とき」がある。その人のことを好きだって思うところがある「とき」もある。

 

いろいろな「とき」があるだけなのだ。

 

そう簡単に人を分断するには、まだまだまだまだ早い可能性がある。

 

分かり合える可能性がある。

 

学校にはそういうポテンシャルがある。

 

よく言っているのは、「人を嫌いになる準備をしない」ということだ。

 

誰かを嫌いになるとき、人は準備をはじめている。いかにその人は自分にとって良いとは思えない相手か、よーく見つめて探しはじめる。

 

それは、自分は人を嫌う冷たい人間でありたくないという本心からくると思う。

けれど、その人だけは嫌われるしかないような

本当に嫌うに値する人なのだというアリバイを探しているのだった。

 

  • ありのまま
  • 自分らしく

これだけでいくと、トラブルが起こる。

その失敗から嫌うのではなく、どう在ればいいのか考え合うこと。

それができる集団は、学校にしかないと思う。

 

そして、そこから「人らしく」が生まれる。

 

  • ありのまま
  • 自分らしく
  • 人らしく

この3つが、見えてくれば、その子たちは強い。

 

困っている人を一番に考える集団になるだろうと思っている。

「入り口はゴール」ってこと

急に後ろから触れられて「カバン開いてます」と注意されるも、久しぶりに安らかな休日を過ごしている、ハピペンです。

 

年に1、2回くらい注意されます。単に気にせず開けているだけという。日本の治安を信じすぎですかね。

 

今日は、意欲の話。

 

見通しをもたせるために一番いいのは、ゴールを体験させることだ。

 

たとえば「野菜を育てること」に意欲をもたせたいとき。

ゴールである料理(調理実習)をちらつかせて、頑張らせることがある。

 

しかし、そのために、事前に完成品を食べていないことが少なくないだろう。

 

けれど、振り返ってみると、意欲の源泉はゴールの体験なのだと言う(養護学校のコーディネーターの先生)。

 

たとえば、小さい頃のホットケーキ。

 

最初、私たちは、それをただ、食べているはず。

 

そして、次のときに、混ぜるなんかをやらせてもらう。

 

次は、卵を割る。

 

次は、袋から粉を移すもやってみる?

 

次は、買いに行くところからやろうか。

 

といった具合に。

 

子どもは、ないゴールに向かって意欲をもつこもは難しく、ゴールの「おいしい」を知っているから、学ぼうとか体験しようとか思えるって話だ。

 

今回、虫を飼いたいという子にあれこれ教えたことを「もっと学ばせられる機会だったか!?」と大人の卑しい妄想をしたのだけれど、その正しい知識の成功体験の後、面白ければ自分で次の虫を飼おうとするだろうし、その際に「自分で調べる」といった「大人の卑しい目的」は果たされるのではないか。と思った。

 

もしできるなら、最初にゴールを味わわせるのは大事だという話。

 

いろいろな学び方のための学びはその後なのかもしれない。

 

ただ、チームのゴールなどは、体験させたり、イメージさせたりしにくいものもある。

 

「実際に」が、無理なら「イメージ」ということになるが、それをいかに与えるかさせるか。

 

媒体は、言葉かもしれないし、絵や写真、イメージ画像、映像、具体物?

まあ、いろいろ。

 

プロジェクトアドベンチャーなんかも、ゴールイメージの感情体験のツールなんだろうなあ。

 

とても魅力的だけど今はキャパ不足。

【整理整頓】が「苦手な子ども」への【解決策】

課題を解決していこう!!ハピペンです。

 

片付けがニガテな子。っていうことで、しばらく見守っていた。と言って、3か月過ぎてしまったのだが、手を入れようと思っている。

 

関係づくりがないまま、指摘するのを控えたかったことと、そういう能力があるのかないのかはっきりしなかった。

 

いろいろ見えてきたのでやってみる。

 

【参考にした本】

このブログでも、様々な場面で登場している本です。強い本。強本。

困った児童への言葉かけと指導

困った児童への言葉かけと指導

 

P105から、「整理整頓の苦手な子ども」という項目がある。

 

小見出しになっていることを抜粋する。

  1. 注意は最小限に
  2. 指導場面を限定して
    ・次の学習の準備
    ・筆入れの中身をそろえる
  3. 週に一度は「整理整頓タイム」
  4. ときには教師がともに

特に「2」が、参考になった。

  • できている子を立たせて誉める
  • できていない子を立たせてできたら座らせる
  • 筆入れの中身を決める
  • 机の上に出させてチェックする
  • 朝の会・帰りの会でチェックする
    帰りの会では、合格した人から帰る
  • 紙に書かせて忘れないようにさせる

 

それと、つい忘れがちな指導言をちゃんと言っていく。

「つぎの学習の準備をした人から休憩です」

 

これらの策を、丁寧に行えたら、改善するだろう。

 

そして、片付けについて気になるあの子のことを思い返してみると、リソースもたくさんあった。

 

  1. コレクションしているものは、めちゃ丁寧に整頓されていた。
    家庭訪問のときに見せてくれた。きれいだった。
  2. 床に落ちているものを拾います。と全体に言うと、一番に動き出す。
  3. 掃除が丁寧。ほうきとちりとりを最後までやってくれている。

ウィークポイントだからこそ、直したいという気持ちがあるのかもしれない。それを本人から感じるし、きれいという感覚ももっている。

ただ、そのスイッチを入れられないことと、今のその子にとって整理整頓しやすい環境ではないのだろうと思う。お道具箱というのがきついのだと思う。

だから「道具袋」にするという改善策も試してみよう。

 

そう、その子は、ただ、いろいろなことを思いついて、やりたくなってしまうだけなのだと思う。

 

筆箱の整頓について

これにいいのが書いてあった。

発達障害のある子のサポートブック (ヒューマンケアブックス)

発達障害のある子のサポートブック (ヒューマンケアブックス)

 

筆ばこへ、鉛筆や消しゴムをしまう。鉛筆一本ずつに色テープをつける。筆箱をしまうところにも色テープをつけ、色でマッチングさせる。声かけをし、きれいにしまえたときはほめる。

P78

これもやってみよう。

 

3連休終了!!

巻雲は24H以内に天気が悪くなる……ハピペンです。最近「チャイ」をよく飲むようになりました。

 

本日は、

  • 読書する
  • バリバラを見る

といった日でした。

 

読んだ本たち

というより、目を通しただけ。

 

 

クロックサイクル→仕事を速く終えようとする(6倍速まで意識)。
並列度→同時に処理できることを増やす。
グレインサイズ→処理する事柄の抽象度を上げる。

グレインサイズが高いと、並列度は下げざるを得ない。
グレインサイクルが低いことは、並列できる。
amazon.co.jp/超�%8…

 

バラバラ

 

最後に脳性麻痺の方、車椅子の方も交えて「大縄」をやる。

 

どーなったと思います?

 

最後は全員笑顔ですよ?!参加できて良かったって。「回す役ー」とか、「応援ー」とかそういうのじゃなく。

 

みんなの声でつくるって大事だなあって思いました。

 

できるとか、できないとか、誰かが勝手に決めることじゃなくて、やっぱり気兼ねない雰囲気で、みんなで「今!」を見つめてつくっていくものなんだ。

 

この番組以外では、どうあがいても手に入らないような、イノベーティブなインプット・学びのある30分でした。

2017年度お疲れ様でございました。【やってみよう!元年】

のんびり自転車なんか買いに行っているハピペンです。定期をモバイルsuicaでiphoneに入れてしまったよ。大丈夫だろうか。忘れる確率は減ると思っているけれど。

 

さて、今年度(3学期のハイライト)を、書きたいなと思いました。

 

3学期

3学期は、低学年は成果物をつくることに追われ、高学年は卒業式練習に追われという感じで、これまで積み上げて来たものを繰り返すっていうのが多かったです。

特に、国語では、

  • 表現
    書く、感情を表す言葉
  • 読む
    5W1H、劇遊び
  • 話す
    助詞

算数では、

  • 広告を使って、買い物を想定して電卓で計算する

などをしました。

 

個人的にできて良かったなあというのが、

「自分の取扱説明書」で、これは、修了式の日にも子どもが内容を覚えていたのでやって良かったと思いました。

www.happypenguin.net

 

あと日常的にビジョントレーニングを教室や廊下に貼って、やれるようにしました。

壁に数字を1〜20まで貼って、手を伸ばすトレーニングができるようにもしました。

 

来年のために言語環境を整えようっていうことも言ったなあ。

f:id:penguin-kn:20180401173717j:image

 

2017年度を振り返ってやってよかったことベスト3

第3位:ラジオ体操

ラジオ体操ができるために必要な身体の動きを考えていくと、今その子がまだ発達しきっていない身体の動きをアセスメントすることができた。

  • 手を真っ直ぐ上に伸ばす
  • ジャンプ
  • 肩を触る

など。それに応えることで、固有覚などの感覚を育めた(はず)。

3学期になって、高飛びやとび箱、前転、なわとび、ボールを蹴るなどできて何度もガッツポーズをしていた。

運動が楽しめるようになったのが良かった。

第2位:切り紙屋

これは「将来飲食店の店員になりたい」という子どもの思いがあったからはじめられたもの。学校を楽しいって思って、朝から元気に来てもらうには、その子がやりたいことをやれる居場所と感じてもらいたかったというのもある。その子の自尊感情を高めたかったから、内発的動機的なことをしたかったし、ありのままを認めるという意味でもやりたかったこと。

2学期から3学期にかけて、高学年の子が店長として折り紙の切り紙屋を開く。

低学年が、お客さんとして来てくれたり、バイトとして6、7人来たりもして、支援の子じゃない子や他学年の子が支援の教室に来てかかわりがもてたのが良かった。

自然と開かれた支援級になったと思う。

 

番外:菜根譚カレンダー

様々な日めくりカレンダーが流行っていますよね。それを子どもに作らせようってだけの話です。国語の中のワンシーンで、毎日コツコツと書いてもらいました。

達成感もあるし、良い言葉も手に入るし、書く意味や楽しみを感じさせやすいと思いました。

出来上がったカレンダーは当然かざりました。すると、毎朝、作者が今日の名言をみんなにアナウンスする役割もでき、いろいろな波及効果がありました。

その名言が菜根譚から来ているというのも結構大きく、私は毎日身を引き締められました。

「毎日コツコツ努力しよう」

「チャンスはいっぱいあるよ」

など。

参考にした本はこれ。

みんなのたあ坊の菜根譚―厳選保存版 今も昔も大切な30のことば

みんなのたあ坊の菜根譚―厳選保存版 今も昔も大切な30のことば

 

 

第1位:親子遠足

お家の方の負担はあるかもしれませんが……すみません!1位にしてしまって。

世の中の他の先生方、怒らないでください。

ハードルがあることで、でも、やっぱりやってよかったというのがこれでした。

やっぱり、子どもたちを育てていく上で、横のつながりって大事だと思います。

そして、私たち教師が、お家の方の日常に降りていって、同じ目線で街に出て子どもを見る。そこからしか生まれない共感があったように思います。

電車に乗るときにどんな気持ちになるか、飲食店でどんなサポートがいるか、それを一緒に体験することができました。

お家の方が、学校の先生といても子どもが家族といるときのように過ごしているのを見て安心したと言ってくれました。

もしかすると、大人同士が手を取り合って遠足に行っている姿を見せることこそが、子どもに一番の効果を与えているのかもしれません。

 

これは、きっと、一生大切にしていかなければならないことかもしれない。

同じ時代に生まれて、生きて、子どもを育てていくってことだ。

ただ、それだけのためにいる私たちは、ただ手を取り合って、願いを共有して、たまに失敗して、コミュニケーションして進んでいったらいい。

教育に正解はない。完璧な教育もない。誰も自信をなくさなくていい。今、やってみれることをやってみる。

「やってみよう!」な一年だったってことだね。

 

では、また来年度!1年間ハピペンの発作を見守ってくれて&応援してくれて、MAXありがとーーー!!!


「やってみよう」 フルver. /WANIMA【公式】

振り返り

 交流の成果物のノルマがきつい……ハピペンです。早め早めに相談しておけばよかった。ネゴシエーション力が……ない。まあやるしかない!

 

今日「◯年生でしたこと」を振り返った(低学年)。

 

一言目は「勉強!」だった。

 

まあそうだよね。

 

そこから「何の?」と問う。

 

「漢字!」と出た。

続けて「テストとノートと練習」と言う。

 

そこから湯水のように45分間、思い出して合計

70個くらい出た。

そんなに一つ一つ自分の言ったことって入ってるのか、と驚いた。

年間200日と考えると3日に1つ新しいことを確実に入れていった感じだろうか。

 

そのどれも継続によって身について来るわけだけど。

 

手を上に真っ直ぐ伸ばす、ジャンプ、しゃがむ。こういうのだって、意識して繰り返してできるようになる。

(そう思うとラジオ体操がきれいにできるって結構身体感覚がいる)

 

新しい学びというよりは、生きていく上での基本的なことが多かった。身体の動かし方、人との関わり方、座り方、話の聞き方、字の書き方など。

 

大事なのはこうして残っているこのどれも(99%)は、「なさい!」などの命令形を使わないで指導してきたこと。

 

見せて、選ばせて、問うて、できたら誉めて、できていないときには丁寧に無視をしてやってきた。

 

来年度にまで持ち越せるのかは未知数だけれども、できた自分を70個も覚えているなんて驚いた。

 

今後も、もうその自分を選べばいいだけなのだ。お手本を理解しているというのは強い。

 

その子曰く、「勝手に言っちゃった」と表現しているときがある。そう、誰にだって「つい」はある。

その都度怒鳴られていたらたまらない。機能として、勝手に起こってしまうことはあるのだ。

そういうときもあるよね、と大目に見る。次回以降のできる限りの努力を称賛したい。そして、そのためには、リハーサルなどの練習もいる。

そうして、出来て誉めるがある。

怒った→反省させた→次を約束した→練習なしは、次の一回が本番ってことだ。

そういう指導は、本当はやらせる気ないんじゃない?  ストレス解消のためにあえてできないようにさせてんじゃない?  と思ってしまう。

 

【残る指導】これは、テーマとしてささやかにはあるので、考えていきたい。

 

その子が次のステージでも生きやすくなりますよーに。

少しでもシステムで見る

お別れ会で漫才をやりたいなんて言うもんだから、必死に見守る「ハピペン」です。

 

「さてどうする、俺」

(最近鈴木先生にはまっています。)

鈴木先生 完全版 DVD-BOX

鈴木先生 完全版 DVD-BOX

 

 

 昨日の気づきを書いておく(長くなってしまった)。

 

よくよく考えると、言ってしまえば、特支で働いている人の専門性って謎だ。謎すぎる。しかも、その責任の重さ。

一挙手一投足が、将来に左右していると思う(もちろん通常学級もそうなのだけどね)。

 

一つ引用

幸いと言いますか、ここ1年ですごく言葉も話せるようになってきました。子どもが小学校にあがるタイミングですけど、特別支援学級に入れるかどうか、すごく悩んでいるところです。

私たち親の責任においてこの子の一生を左右する大事な決断だと思っています。

 

どの親御さんも「通常学級に入れたい」と思うのかもしれませんが、実際、望めば通常学級に入れることはできるんです。でも、子どもがついていけるかどうかはわかりません。
お医者さんにも言われたのですが、最終的には親が決めるしかない。子どものことを考えるなら手厚いサポートが受けられる特別支援学級に入れた方がいいのかもしれません。

発達障害の子どもとその親にも寄り添う学習塾!「LITALICOジュニア」の指導員が笑顔を大事にする理由 | soar(ソア)より

特別のつくものに入ることについての葛藤はどのステージにもあるのだと思う。

 

この辺りについて、誰もがどれくらい明言してしまっていいのかは迷う。

 

教師一人の専門性では全く担えない。

教師は子どもとの信頼関係を構築し、専門家たちの専門的な視点から織りなされる必要だと思われる内容を入力する、または入力のために加工するというのが役割なように思う。

 

全くもって自分の専門性を過信しない。頼らない。

 

特別支援コーディネーター、管理職、医療、心理士、療法士、ソーシャルワーカー、相談員、事業所、支援学校など、使える資源を使えるだけ使った方がいい。

当然、そのご家庭の考えであったり、人そのものであったり、合う合わないはあると思う(かつ情報過多で収束やアテンドが大変にならないように)。

安心や歩調に合う理解者を探す。

できれば、12年がつながって見られるような、学校外の視点はあった方がよい。

学校は、教師の考えで流れる。ただし、子どもたちは1年契約でいろいろな経験をというタイプが多くはないと思っている。それをやりつつも、第三の視点がいる。

 

結果、経験則になるのだけれど、そうすると、関係者の精神的にも、実際の育ちにもプラスなことが多いと思っている。

 

その子の自立に向けて何がいるのかってことである。その子の人生にとって。

学校としてとか置いといて、毎日会っているというのが大きな資源だから、教師がさまざまな人の視点から良いと思われることをするといい。

 

必要な情報を仕入れられるかを考える。

 

昨日保育園からの引き継ぎで、

医療や家と教育機関以外の療育機関等についてどの程度提案しているか、

を聞いた。

園には、専門家が月に一度来ていて、そこで発達や指導に関する知見を手に入れているとのことだった。

 

知らなかった。

つまり、お家の方も、システム上そういうものだということで、埋没する可能性があるということだ。

 

その状態で小学校に上がれば、小学校はそういうものなんだと進んでいってしまうかもしれない。

はじめに言った、専門的な知見なしで、特支で働いている人の専門性は謎にもかかわらず、信頼して流れていくっていうことだ。

もちろん、いや、教師が専門性をもてよ!ってのもある。特支1年目には専用の研修もある。

 

しかし、教育の原点と言われるような、人間を多様な視点で理解する(社会、心理、発達、権利、哲学など)ことは、簡単ではない。それぞれに頼りたい。

 

だから、話し合いながら、第三の目や機関を提案していく必要がある。と分かった。ご足労はかけるかもしれない。でも、リターンは小さくないと思う。

(そしてこれは、自動的には手に入らない。声をあげないと手に入らないもの。)

 

もちろん、そうしない方法もある。

基本はお家の方の要望は第一なので、合意を得て、目の前の課題に対して計画を立てて教育すればよい。

 

ただし、その穴は、お互いの知識からしか出てこないってことだ。

その子を見る視点は多様で、未来に少しでも即しているとよい。

 

少なくとも、その子についての専門性は基本的にお家の方が上だし。学校の教えたいことは、相応しいときと相応しくないときがある。

ベースは、願いなのかもしれない。現実的な願い。

自立につなげることと言いたくなるが、違和感があるので、「笑顔と自立」と言い直してみる。結果、その子の「笑顔と自立」につながっていればよい。

 

あと半月で今年度が終わる。5年間お世話になった子どもたち。1日だって退屈しなかった。

もうすぐ終わる。

 

私が、ブログで、学校の教えは本当に意味があることをしているのか。と、のたうちまわっているのは、彼らとの教育が未来に直結すると思うからだ。

 

教育の原点と言われるものを、私の脳がスッポンだからわずかばかりかもしれないが、学ばせてもらった。この幸福は死ぬまで絶えない。 

スーホの白い馬

流れる季節の真ん中で「ハピペン」です。

流れる季節のど直球。ど真ん中。そんな気さらっさらないね。端の端だ。

昨日の遠足についてのお家の方の意見が返ってきた。子どもが安心して過ごしているのが伝わってきたとのこと。そういう学校を感じてもらえたのは嬉しい。

 

そんな中やっているのが「2年:スーホの白い馬」の読み取り。

 

語彙や生活経験がないと考えられる彼らと、劇遊びをしながら物語を読み取るのは(読み取るというほどのことができている自信はないけど)面白い。

 

言葉を正確に読むというのが難しいから、身体を動かしながら、いる場所とか、したこととかをやらせると、誤りに気付いたり、起こっていることに気づける。

 

競馬大会で白馬に乗ってレースをする。優勝したのは誰ですかと問う。「とのさま」と言ってみたり(もう手に入れちゃってんじゃん!)、「いや、今乗って優勝したのあなたでしょ、あなた誰なのよ?」「●●●(本名)」「違うし!役よ役、今あなたは誰なの?」「スーホ」「でしょ?!勝ったあなた誰?」みたいな。

 

白馬を失って悲しんでいるスーホにとのさまが白馬を渡しにきちゃったり(いいのよ、今道徳観発揮しないで、そういうことじゃないのよ。と)。

 

生活の中でまだ出くわしていない経験を感じ取らせるのがむずかしい。「眠ろうとしたがなかなか眠れなかった」とか。

 

そもそも「眠ろうとして寝れない」って結構大人っぽいよね。2年で出てくるけど。

 

ただ「スーホの白い馬」で一番日常とかけ離れていて、不明に陥るのは、馬を楽器にするところだろうと思う。

 

今回は、小道具として、画用紙で馬を作っていたので、そのシーンになって、馬を解体。ハサミで切らせる。そして、セロテープを使って楽器にする。

子どもがハサミを入れた馬の頭がちゃんと楽器の一番上にある。

 

YouTubeで、馬頭琴の音を鳴らしながら、その楽器を弾くフリをするのは、楽しそうで、周りの子も寄ってきてやりたがった。

 

スーホの気持ちとして、馬がいなくなって悲しいけど、楽器として生まれ変わって共にあるってそういうことなんだ。と、物を見てなんとなく知る。

 

二週間くらい、演じる中で私たちと一緒に登場していた白馬は死んだ。楽器になってしまった。

 

そこまで、画用紙の白馬に愛着があったか分からないけど、「切っていいの?」と「ここ?」と5回は聞いてきたので躊躇いはあったと思う。

来週、最終場面を読む。

 

白馬は死んだけど、楽器としては存在して、それを大切にしたってことが少しは伝わると信じている。

 

そして最後には、それを試すのに業者テストをやろうと思っている自分のつまらなさに落胆する。

 

今回、大切にしているのは、言葉の理解です。

自分たちで演じた動きや意味が想起できるようになるといいなあと思う。

それと、一番驚いたところを聞こう。