かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

218:会計の声

眠りたいと思わなかった。

食べたいと思わなかった。

 

10年前くらいに一度だけあったなあ。どうしても、眠れなかったこと。

自分が何のために、自分をしているのか分からなくなった。頭を悩ませた。行きたいと思えないと思うことが止まなかった。

 

そう考えると、今はそういうわけではない。

教室にしか答えはないな、と思う。

それと、自分らしいリーダーシップでいいか、と思う。

 

上手くなくていい。だから、本質的でなく、既成事実的な立ち回りになる時間が出来てしまうことも致し方ないところがあっていいこととする。

 

理想との違いにダメージを受けるも。

それは、ほぼほぼ成績のための苦しさで、何かが嫌になったわけではないのだ。

 

単に会計の声に打ち負かされているだけである。そうでない立ち回りでいようとしたのだから、それは、そうあるしかないのだろうな。

 



 

 

それでも。ゆらゆらと着地か。

215:『人間アレルギー』

土日に読んだ本。

 

多少あるかもな、と思った。

 

アレルギーとは、異物を記憶して排除する仕組みである。それが、人間に対しても起こるということ。心のアレルギーだ。

 

対人関係の根本的な部分であったり、蓄積であったり、衝撃であったりによって拒絶が出てしまうということだ。

 

何によって、人は人を異物と認定するのか。

この3つが挙げられていた。

・自分を害することがないか

・常識やルールを共有できるか(ルールは親密になるほど明らかになる)

・関心や気持ちを共有できるか

ざっと、マイノリティは不利だなと思った。

チームはチームなようでチームでなかったりしてね、一人のためのチームにはなれなかったりする。あるチームと、ある個人がいる集団はチームなんだろうか。それでも、あるチームを包摂しきることは簡単ではない。だから、見なかったことにする。そういうようなスパイラルが至る所にあるのだろうな。

 

人間アレルギー克服には、いくつかやり方がある。ちょっとずつ慣れるとか、認識を変えるとか。

ただ、認識だけでは難しい。分かっちゃいるけど、が起こる。行動から入ってもいいのかもしれない。愛着がそこから起こるからだ。

 

オキシトシンってことでもある。

 

信頼によって出る脳内物質。

信頼のある現場なら、幸福感も高いのだろうな。

 

困らない職場より、困ったら助けてもらえる職場がいいな。なんだか今日は切なく、苦しい気持ちである。声の上げづらさをなんとなくメタしたからだと思う。

 

土曜の朝に「テレビ寺子屋」で陰山さんが漢字学習について話していた。「やり方」を知ると、やってみたくなりもする。

田川市のHPにやり方の動画があってたまげる。

「おうちでできる!漢字速習」の説明動画を配信! / 田川市

214:余計な

余計なこと。不明瞭なこと。そういうのが、一番の不安。心の負債になるってことはないだろうか。

 

正直で、誠実な方を取りがちである。

どうしたものか。

 

そうして振ったサイコロの目の明暗はいかに。

どうなるのだろうか。

 

それを試行錯誤しつつ。

終わりの一年、9の年が進行していることも踏まえながら。起こることを受容していくということだよな。

 

このモヤモヤする癖から脱したいわけだけどね。まだ、その残骸はあるなあ。

 

 

また、このもやが晴れた時に、生まれる経験則なのだろうな。

 

自分は守られているのか。そういうことに、ずっと疑いがある感じだな。その実感がないわけだ。

 

怯え、脅かし。

守られている実感のために、ふいに飛び越えてしまうこともあるのか。

 

 

213:信じていないだけ

だから、インファイトしないってことかな。

 

私は、その距離感が心地いいんだろうか。

それでも、地道に変わっていく子どもたち。

 

今週、よくないということは十分わかった上で、休み時間を奪っている。これをやると、関係を崩すのではないか、と頑なに信じてやっていなかった。初めてやった。

 

でも、そのスリルが楽しくなってしまっているギャンブラーもいるのかもしれない。と、今日は思った。

 

期限であったり、引くに引けないというので、人は「闘争系」のドーピング的なやる気に作用できるのかもしれないな。

 

そういう手段を取るということは、そういう手段が有効な可能性があることを何となく見聞きして経験的に知っているってことなんだろうな。

 

そして、それは、単に「そこにあるつながり」を信じていないというだけのことなのかもしれないとも思った。

 

強く出ても平気なほどに、つながりはあるのだ。それを信じないからインファイトがない。

 

 

なぜか。

 

その根底には「欠陥・欠損」的な懸念、欠乏なのではないか、と昨晩うとうとしながら思った。

ザ・メンタルモデル

 

自分は至らない。価値がないって思いすぎなのだ。

 

でも、今年はそんなには「12のステップ」も開かなかった。ずっと自分でやれたって感じだ。神頼みで流すことは少なかったように思う。

 

210:『その先に霞んでいる』

『その先に霞んでいる』

朝は、聴きたい曲が浮かばず。疲れている証拠である。速い刺激のある曲を避けたくなる。そうなると、宇多田ヒカルが候補に上がってくる。一昨年、一時『光』しか聞かなくなった時があった。そのあとは、『Flaver of life』の鬼リピだった。とにかく、耳に違和感なく流れる曲が流したくなる。もうオートな気分で今日をやり過ごそうと『Automatic』を選曲するも、その後の『Movin'out without you』がなんか迫ってくるから「あー」となって。

 

そうなると、いい曲なのになんかこないサザーランドの『その先に霞んでいる」が候補に上がり。最寄駅について聴き始めた。

 

そうそう、これこれ。と思う。

輝く未来を願うがあまり

足元のステップにつまずいてしまうんだ

堪えきれず溢れた涙

答えはきっとその先に霞んでいる

そうだよなあ。

霞んでるよなあ。

答えは涙の向こうに。だとすれば、今は順風か。と思い直す。

 

ほんとふがいないな

昨日からほんの

一歩も進めてないよ

まさに。停滞。低迷。

 

焦らずに進もう。

今日よりも素晴らしいはずの明日へ

そう信じていくしかないし。自分だけは諦めちゃいけない仕事だよな。とも思う。

 

できることを。一回でもいいから働きかけ続けることを。

 

そういうわけで、日中はなんとなく順風である。「怒られないから」ということで、ゆるい行動をするいただけない姿を横目に、一応まくし立てもして、コトを進めていく。

 

オレがクラスで一番優しいよ、ホント。と嘆く。じゃあ、オレは二番目と二人の童が名乗り出る。片方は「いつまでもハピペンが優しくしてくれるわけじゃないんだからね」と叫んでいる。

 

それも、そうか。

優しさを引き継いでもいいな。

 

ちょうど昨日その子がやたら泣く子に辛抱強く寄り添っていて、私は若干しびれを切らしていたけれど、偉いなというか、放っておけよというか、辛抱強いなというか、すげーなって思った。

 

3月は、厳しめでいくかな。

「いつ変わるか!今でしょ!」とか叫んでね。

 

カウントダウンカレンダーも作った。

 

私たちは、終わりに向かって、成長していかなければならない。

 

お家の方から「また持ってもらうことがあったら、これまでのようにお願いします」と言われることもある。もはや、もう佳境だ。別れは目前。

 

帰りはいくらか穏やかである(まあ、ただの金曜日ってことか。そして、やはり水曜は勝てない)。

 

自然とチョイスが『その瞳のかげり』に。

 

これも、サザーランドの名曲である。

SCREEN~スクリーン~

SCREEN~スクリーン~

 

 

いつかすべては輝く

辛い日々もきっと笑い話になる

20代は、この言葉に支えられて生きた。ずーっと思ってた。「いつかすべては輝く」と。THE日本人みたいな考えだけども。それ以外の願いはないな。いつも、ずっと、誰も彼も、どいつもこいつも、報われてほしいって思っている。お前にOKサインが出したい。そういう気構えで生きている。本当に幸せになったもんだな。とも思う。

 

今聞いても、サザーランド本気出したなって曲だ。

 

そう選んだ人生だ。と強く踏みしめていた。

207:役不足

素晴らしい理念のことは、さておいて。

結局、集団生活(自分を越えた目標や目的がある場)ということは、一定の「従わせ」がいる。当たり前。ようやくそれをインストールしきれるかもしれない。

 

特別支援での自分をイメージして、それと対峙すると少し分かってきた。

「自分の」目的だったり、人生だったりを考えていく必要のあることに頭が慣れ親しんでしまっていたからかもしれない。

 

社会は「自分を越えた現実」として、既に、先に存在(君臨)している。少なくとも半分は、そこへの適応が求められるわけで、その「出来上がっている」目標に、いかに乗れるかを育む他ないのかもしれない。

 

いくら「彼ら」に寄っていったところで、そこには、また「他者と折り合いをつけた佇まい(自分やありのままを越えた態度)」が存在するわけで、自分を調整して、社会と調和しようとすることが強いられる。

 

それが心地よくなるように、いかに導けるかということを考えていたし、アドラーしかり、今思う解釈では、いかに「ありのままを善に書き換えるか」というような、儚く尊いチャレンジをしていたのではないか、考える。

 

これは、途方もない。だとしたら、フリーライダーしかり、概ね、居心地のいい、「やってくる目的」に従って過ごしてしまったり、自分を調整してしまった方が気楽である。

 

組織の中での主体性では、組織の好ましい時間や空間や人や物の使い方以上のものを発揮することはできないのである。

 

ちょうど今朝見た、大西拓磨さんの話がそれに近いと思える。芸術にはルールがあるということだ。与えられている「自由(発散)」は、あくまで「ある枠組みの中での自由」となる。他者を侵略しない、脅かさない自由ということである。

 

外にある目標は、自己を脅かす。それが嫌だから人は適応していく。適応しないには「特別」がいるのかもしれない。

 

話は変わって。

給食前にイライラすることがずっと多かったのだけど、そのある子らは「退屈」だったのである。

 

役を与えると、私は全くイライラせず、心地よく給食の準備ができた。

「役を与える」ということは、解決に有効である。関わりが変わるからね。

よい介入だったと思う。

 

 

204:水曜は勝てない?

なんとなく、もやっとする時間があった。

 

「座っている人は花丸です」と言ってみる。

まあ、そうすればスッと座るに決まっている。

 

にしても、よく聞けるようにもなってきている。感心するほど。音読もうまい。

「音読をするとスッキリする」とか言われる。お利口やな。「もう一回音読したい」と言われる。なかなかやで。

 

そして、ふと「水曜か」と思った。

 

「水曜は勝てない」。

今年のクラスはそういうっ気がある。

今になって思うと「時間割の問題なのだろう」と思うけれど、そういうもやっとした時間がある。

 

特段、それは昼休みの後に顕著である。

不思議なものである。

 

体育もうまくなった。合わせて楽しむみたいのができるようになった。

 

ドッジボールなんか、全員で参加して楽しそうにやっている。運動を楽しんでいるように見えて気持ちもほころぶ。

 

今日、ふと、「学校楽しい」の感覚があった。自分が低学年の時に、廊下でなんとなく「学校好きだなあ」って思ったような瞬間に感覚が似ていた。不安がない状態である。毎日似たように、メンバーとかかわって、次また次というように時間が過ぎていくような感じ。

 

イレギュラーの少なさ?

「見通しを示す」ではなく、「見通しをもたせる」、見通しをもつ、もっている。この違いかもしれない。

なんか安心感があった。その正体はよくわからない。

 

 

203:ひたすら追う

いわせんのブログを読んでいて、いわせんってすごいなあと改めて思う。

 

ずっと追っている。

ひむきに走っている。

 

自分はそれが苦しいって思ってしまう。

でも、いわせんは楽しそうである。

そこにプロを感じる。

 

私は、「っぽい」ことばかりだなあと思わされる。少しでもホンモノでありたいと思わされる。

 

そういう刺激になれたらいいのだろうな。

水紋のような反響のイメージ。

 

その在り方が、喚起するもの。感化するもの。

 

楽しんでいる人にはかなわないのかもしれない。

責任を果たすとか役割を全うするとかを飛び越えて。

 

彼らとの関わりを安心して楽しみたいものだ。平気で破られるルールを正すことに疲弊する。私の心理的安全性をもっと求めてもみたい。