かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

【2つの視点】「困っている人は誰か?」「学べる環境か?」【その2】

100m全力で走ったら目がチカチカする「ハピペン」です。な、なんだ、これは!

 

昨日の続き。

 

今日は「学べる環境か?」ということ。

 

「学べる環境?」

そもそもは、LITALICOの野口晃菜さんのtweetに感銘を受けた。

 

自分の中にある陥りがちなフレームに気づきメタが浮かんだ。

 

  1. 【従来】できない→できるようにやらせる
  2. 【現在】できない→学べてない

 

上のように考えられると、問題が子どものせいになりにくいと思った。

 

「何かができない」としたら、それは「学べていないから」なのだった。

 

  • 知識(それをした方が良いということ)
  • 技能

 

諸々。何かその子ができていないとしたら、それは学べていないからなのだ。

機能として難しい部分もあるかもしれないし、あるだろう……。

それでも、そうした子たちも、目的に向かって必要な「学び」が得られていないだけであって、その目的に向かうための「学び方は"必ず"存在する」ということだ。

 

その「学び方」は、ほとんどの場合、私たちは気づかないのかもしれない。

言ってしまえば、本当は一億人に合った学び方があるということだ。

 

「学ばせるのは誰かって?」

無論、教師である。

ただ、「学ばせる」というよりは、「学べる環境づくり」という方が相応しいように思う。

 

その子が学べる(情報や知識、やり方などで入れられる)ように「加工」「工夫」「構成」「調整」することこそ、教師の役目だ。

 

私は、教師の仕事はこの先どんどん「処方箋的」になるのではないかと考えている。

 

「学べる環境づくり」という視点で子どもを見つめる

「できるか?」

より

「学べるか?」

で問うと上手く説明出来ないが、少し教室の見え方が変わる。

 

たとえば、

1.漢字のプリント

「遊ぶ」と「読む」の活用の問題だった。

下手をすると1問目の「遊ぶ」から、考えさせ、気づかせ、出来たじゃん!とやってしまいそうである。

しかし、1問目の後には脳のエネルギーも消費しているし、どういうルールで出来たのかもメタ出来ず、2問目はやりたくないになるのではないかと想像した。

 

これは、要は「学べていない」と言えるだろう。それこそ、「できた」けど、「学べていない」のだ。

 

ここでの学びは「何か?」といえば、活用についてのメタ*1だ。

 

だから「遊び」については「ばびぶべぼ」が入る1マスを空けて板書した。普段の使用度をイメージして、レベルを2段階にした。

良かったのは、子どもが「こっちの方が2じゃない?」と問題についてメタするコミュニケーションも起こった。

 

すると、2問目の「読む」は自分でやりたいとなり、結構「簡単だったね」と笑顔だった。

 

(いや、いつもプリント1枚集中してイライラされてるでしょうよ!)

 

休憩の約束をしていたので、プリントを終えて休憩する。

しかし、途中で「さっきのは簡単すぎたのであと10分勉強させてください」と来た。

 

いろいろ過大解釈しすぎかもしれないが、やっぱり「子どもに優しいフレーム」だなと思った。

 

他にも、運動会のスローガンの折り紙貼り、物と物のマッチング、点つなぎのスタートとゴールなどをやらせたとき、そのフレームで考えてみた。

 

既存の環境では学びづらいから学べる場を用意しているだけ。

 

「できない」ってことは、そのときどうすべきか「まだ学べていない」ってことだ。私たちのせいで。

 

活動において、

  • できない→学べていないだけ
  • できない→としても、学べているか?

「学べていればあり」である。

 

たとえば、次はできそうとか、知らないことを知れたとか、分からないことが分かったとか。

これまでの自分と授業後の自分にプラスの差分があれば良しだ。

 

この動画も良い刺激。

 

*1:メタは学習の転移のために重要な力とされている