100m全力で走ったら目がチカチカする「ハピペン」です。な、なんだ、これは!
昨日の続き。
今日は「学べる環境か?」ということ。
「学べる環境?」
そもそもは、LITALICOの野口晃菜さんのtweetに感銘を受けた。
「障害は社会の側にあるといいながら、なぜトレーニングしてるの?」と昨日質問されたんだけど、すでに用意されている環境で学ぶことが難しいからその子にあった学びの環境を作ってるだけ。既存の環境は発達の仕方のタイプがマジョリティ用にデザインされてるから。トレーニングとは違う。
— Akina Noguchi 野口晃菜 (@akinaln) 2017年9月16日
自分の中にある陥りがちなフレームに気づきメタが浮かんだ。
- 【従来】できない→できるようにやらせる
- 【現在】できない→学べてない
上のように考えられると、問題が子どものせいになりにくいと思った。
「何かができない」としたら、それは「学べていないから」なのだった。
- 知識(それをした方が良いということ)
- 技能
諸々。何かその子ができていないとしたら、それは学べていないからなのだ。
機能として難しい部分もあるかもしれないし、あるだろう……。
それでも、そうした子たちも、目的に向かって必要な「学び」が得られていないだけであって、その目的に向かうための「学び方は"必ず"存在する」ということだ。
その「学び方」は、ほとんどの場合、私たちは気づかないのかもしれない。
言ってしまえば、本当は一億人に合った学び方があるということだ。
「学ばせるのは誰かって?」
無論、教師である。
ただ、「学ばせる」というよりは、「学べる環境づくり」という方が相応しいように思う。
その子が学べる(情報や知識、やり方などで入れられる)ように「加工」「工夫」「構成」「調整」することこそ、教師の役目だ。
私は、教師の仕事はこの先どんどん「処方箋的」になるのではないかと考えている。
「学べる環境づくり」という視点で子どもを見つめる
「できるか?」
より
「学べるか?」
で問うと上手く説明出来ないが、少し教室の見え方が変わる。
たとえば、
1.漢字のプリント
「遊ぶ」と「読む」の活用の問題だった。
下手をすると1問目の「遊ぶ」から、考えさせ、気づかせ、出来たじゃん!とやってしまいそうである。
しかし、1問目の後には脳のエネルギーも消費しているし、どういうルールで出来たのかもメタ出来ず、2問目はやりたくないになるのではないかと想像した。
これは、要は「学べていない」と言えるだろう。それこそ、「できた」けど、「学べていない」のだ。
ここでの学びは「何か?」といえば、活用についてのメタ*1だ。
だから「遊び」については「ばびぶべぼ」が入る1マスを空けて板書した。普段の使用度をイメージして、レベルを2段階にした。
良かったのは、子どもが「こっちの方が2じゃない?」と問題についてメタするコミュニケーションも起こった。
すると、2問目の「読む」は自分でやりたいとなり、結構「簡単だったね」と笑顔だった。
(いや、いつもプリント1枚集中してイライラされてるでしょうよ!)
休憩の約束をしていたので、プリントを終えて休憩する。
しかし、途中で「さっきのは簡単すぎたのであと10分勉強させてください」と来た。
いろいろ過大解釈しすぎかもしれないが、やっぱり「子どもに優しいフレーム」だなと思った。
他にも、運動会のスローガンの折り紙貼り、物と物のマッチング、点つなぎのスタートとゴールなどをやらせたとき、そのフレームで考えてみた。
既存の環境では学びづらいから学べる場を用意しているだけ。
「できない」ってことは、そのときどうすべきか「まだ学べていない」ってことだ。私たちのせいで。
活動において、
- できない→学べていないだけ
- できない→としても、学べているか?
「学べていればあり」である。
たとえば、次はできそうとか、知らないことを知れたとか、分からないことが分かったとか。
これまでの自分と授業後の自分にプラスの差分があれば良しだ。
この動画も良い刺激。
*1:メタは学習の転移のために重要な力とされている