帰ってきたら23:00だったけど、帰り道同僚と話せてよかった。やっぱり話すっていいなと思った「ハピペン」 です。もう、こりゃいい思い出だなあ。
私は残って疲れるのが苦手です。
そのツケはいつか出るし、学級の子たちの安心・安全に神経を使いたいため、にぶっていると不安が大きくなるからです。
感じる「快」
それでも、いつもより長めの残業に感じる「快」が意外となくない。
「やった感」がすごい。帰ったら寝るだけ。
朝起きてもスッキリで驚く。
帰って、寝て、起きるだけ。
去年のこの時期に感じていた感覚に近い。去年は下半期毎日この気分だった。朝の清い空気と、職場を締めて外に出た時の澄んだ秋の空気だけが楽しみ。
ただ、自分が蝕まれていく感はある。
自分の時間なんてない。
去年、週1で人生を振り返ったり見通したり、ノートを開いて自分について考える時間をつくっていると言った40代の先生にえらく感心したが、それは、それができる状況ありきだ。
学びって贅沢品か。
そんなことよりも
先の「充実感のようなもの」が、ひたすらループする日常。
「こんだけ頑張ったんだから」「こんだけ頑張ってるんだから」そんな言葉が浮かぶ。
それは、特に同僚に対して浮かぶ。最悪な展開は「だからちょっとぐらい子どもが育たなくたってしょうがないのよ。"私は"頑張ってるんだから。あの子たちが特別で例外なのよ」と言いたくなれるところだ。
これは、怖い。本質を見失う。
「自分なりのやった感」はある。だから、学級に一石投じられない場合(石投げないよ?)、「残る→快感→繰り返す残業(実際改善したいから必然的に残りがちになる)→蝕まれる体と自己→限界→崩壊→休職コース」はあるだろうなと思う。
残業の充実感は、日常への「ドーピング」的で、成果が上がらないことへの「免罪符」にもなり、「悪循環への入り口」でもある。
そうならないためには、管理職や先輩、ベテランほど、早く帰らないことを「よし」とはしないことだと思う。
頑張っているけど、とても良いとは言えないことだという理性はブレない方がいいと思う。
実際、睡眠が少ないイライラのような種は潜在していて、思ったよりも上手くいかなかった時に、氷山の一角として出てしまいそうである。
「『疲れ』や『自分を奪われる』ってのは、相手を傷つける動機になる」ってことだ。
大変な人ほど早く帰られる仕組みを
大変な人には帰らせる仕組みを作った方がいい。それは具体的なフォローを行うってことで、さらには、それが当たり前なんだという感覚を担任たちが持つ必要があると思う。
そのためには、子どもたちに施す、優先順位をどう考えられるかが大事。
たとえば、学級崩壊している学級に対応するには、従前の教育課程はすでに崩壊している可能性がある。にもかかわらず、変なところから、教育課程がとか縛られることもあるんじゃないだろうか。「今、その子に必要な経験は何か」を担任だけじゃなくて、学校の責任で導くのが筋だと思う。
仕事は、長く職場にいることではなくて、子どもを観ることだ。
今日。昨日働いた感より、子どもを観ることを意識してリスタートしよう。