9時間睡眠という贅沢(?)をしてしまった「ハピペン」です。何時間寝ようが自由だろうけど。
完全に、まなびと!さんに触発されて本を購入。週末に貧困について話す機会もあるからっていうのもあるけれど。
そもそもの、知識のインプットが足りなかったと反省。
今はこの本に目を通しています。
まだ、序盤だけれど、貧困について分かりやすい言葉でフレームが示されている。
お金がない 。つながりがない 。自信がない 。これを貧困と言う 。
(まえがきより)
「つながり」と「自信」。私が、学童で働いていて学校でつけさせたいと思ったものだった。お金はきりがないし、学校ではとても補えなさそう(なんかしら自分たちのためのチャリティを起こしてよければ話は変わるかもしれないが)。
ただ「公」だし、「公」における、「つながり」と「自信(自分の力に気づける、自分の力を発揮できる、自分の力を発揮したいと思える)」については、絶好の場だろうと思っている。
どっかの誰かさんに、それは小学校の仕事じゃないとか言われるかもしれないが。だから「ハピペン」はソーシャルの人なんじゃない?と言われるのだろうなと思う。
そして、第1章で「子ども食堂」について理念等が説明されている。
「子ども食堂」が、何を提供しているかと言えば「居場所」を提供している。居場所が担うのは、
- 「栄養」と「知識」
- 「体験(交流)」
- 「時間」:自分に関わり 、自分を見て 、自分に声をかけて 、自分の話を聞いてくれる時間 。
- 「トラブル対応(生活支援)」
行政がやりきれないところを地域が協力して補っている様子が浮かぶ。
目指す姿は以下のようなものだそう。
たとえば 、滋賀県近江八幡市で 「むさっ子食堂 」を運営する石田幸代さんは 、目指すのは 「 『こんにちは 』だけで終わらない地域づくり 」だと言う 。
(中略)
地域のいろんな人が、こども食堂で顔を合わせ 、一緒に作業していれば 「あれ 、どうしますか ? 」とか 「あの子 、どうなったかね ? 」とか 、 「その次 」の言葉が出てくる 。地域の縁を強くする 、その役割を 「むさっ子食堂 」は担いたいと言う 。
(kindle 625)
学校がそうなればいいのになあ、と思ってしまった。いろいろな人が入ってきて、子どもを見合う。なぜできないかを考えてみたいなあ。抱える人数が違うし、安心安全ってのがあるだろうけど。増えるほど管理しにくいものね。
ってより、やっぱり時間か。時間がないんだよね。夕方まだ働いているし。明日の準備。教師は当たり前に、これ以上関わる時間を引き延ばせないし、日中をそういう時間にできない。なぜだろう。エッセンスは何かしら入れられないだろうかって思うけど。
個人的には、3.「時間」の説明で『モモ』が使われていたのが快かった。
彼らは余暇の時間でさえ 、すこしのむだもなく使わなくてはと考えました 。ですからその時間のうちにできるだけたくさんの娯楽をつめこもうと 、もうやたらとせわしなく遊ぶのです。
「あそび(遊び)にあそび(ゆとり)をなくしている。」
遊びってのは、もしかすると「ゆとりそのもの」かもしれない。なのに、遊びすら計画し、忙しさの中に組み込まなければ行えない。
なんのための「あそび」なのか。ここにも手段の目的化が潜んでいそうである。管理されたあそびは、遊びと言えるのか?と考えたくなる。
ふたせんの子のポテコが浮かぶ(笑)あれはあそびだなあ。
要はゆとりのない遊びが行われて「忙しい」ってことになっているってことだ。
逆に「ブレーキのゆとり(あそび)」をなくした「遊び」しかないってことだ。急ブレーキオンリーな遊び。
たまに「ボーっとすることの大切さ」みたいな記事を見かけるのもこの辺りと関係しそう。
経済活動と人間活動と合っていないところってあるのだと思う。
子どもには 、かまってもらう時間が必要だ 。
話しかけたり 、耳を傾けたり 。そうした人との関わりの中で 、子どもたちは社会性や常識を身につけ 、語彙を増やし 、物事の見方や考え方を学んでいく 。
そこに十分な時間がかけられたとき 、その相手やそこにあるモノ 、それを包む空間は 、その子になじみ 、身構えなくてよくなり 、自分が自分でいられるようになり 、居場所になる 。
(kindle 480)
これに大賛成。子どもは「見て」ばかり言う。たとえば、これをなくす!っていう運動は起こせるだろうか。
子どものかまってほしさを包摂し、飽和したい。
当然大人一人では大変なので、途中から外部委託、子ども同士のかまい合いの価値を高騰させて、横のリレーションを育む戦略がいるだろうけど。
「先天的価値」とも関連しそうな話。
また貧困については、引き続き扱っていく。