週中ごろの寒さ大的中じゃないっすか!?今日に限ってくるぶしソックスだし!足元が冷気に刈り取られてしまったわよ!みなさんも三首(首、手首、足首)を温めて、是非「温活」されてください。
昨日、低学年が列を歩いているのを横から見ていた。背中をふざけて押した子がいた。そこから「やめて!」といった言い合いが始まる。
その刺激が楽しいだけかもしれない。
けれど、嫌な気持ちがするって分かってやっているよなあと思った。なぜそれをするのか。それは「されたことがあるから」だよな。と思った。その時の「感情」が残っていて再生される。
「人はされたことしかできない」と確信する。自分がされたのだから相手にしてもいいってことだ。
途中フードをかぶって歩いた子がいた。後ろから「A!ダメだよ!」と注意した子がいた。なぜだろう。やっぱり、悪いことをして注意されたことのある子が、悪いことは注意すればいいっていう判断なのだと思う。
それでも、「自分がされて嫌なことは人にはしません」なんてことが、朝会で言われもする。
「みんな注意されてそんなに有難がって受け取ってんの?」と気になった。
前に、ツイートか何かで「怒られたって叱られたって、子どものストレスには変わりない」っていうのを見てファイナルアンサーだと思った。
そのストレスは回る。これは、アランの『幸福論』を見て強くそう思った。
「いじめ」について話すときに個人的に気を付けたいと思っていること
ここでは、
- 自分がされて嫌なことは人にはしないのではなく、人がされて嫌なことを人にはしないこと。
-
いじめは、どんな理由があろうとしてはならないこと。
-
思いやりの心があれば、自動的に行動が起こるわけではないこと。
などについて書く。
私が聞いていてよく違和感を感じるのが、先ほども上げた「自分がされて嫌なことは人にもしない」ということだ。これは、たどると確か老子が出てきて、おそらくルーツもそこだろうと思う。
そんな老子がたどり着いたような答えを子どもたちに伝えて実践できるか、というと無茶だよなあとよく思う。
できないことを子どもたちに当たり前のようにやれと言っていると社会の信用を無くすのではないかとひやひやする。
大人が大人に怒鳴られれば相当きついように、子どもだってそうだ。大人の世界はちっとも「自分がされて嫌なことは人にもしない」ではない。
だから、これを付け加えたいといつも思う。「相手が嫌がることは相手にしない」だ。シンプルなルールで分かりやすいと思うのだけど。
絶対的なルールの前提として言語化したいことがもう一つある。
それは「いかなる理由があろうと、人をいじめていい理由にはならない」ってことだ。
「いじめは絶対にしてはいけない」とは、よく連呼されるのだけれど「どんな場合」もが抜ける。大人の文脈であれば、それは、当然何があっても絶対になのだけれど、「何か理由があるときは良い」と感情に任せて解釈が起こるケースがあるだろうと思う。
「アイツが悪いから」「オレもやられた」「みんなも迷惑している」など、何か大義名分さえあれば、やっつけていいと解釈している子もいると思えることがある。
それは、教師の態度からもそうで、先生がよく注意している。迷惑そうにしている。イライラしている。そう子どもが感じると、ヒエラルキーができて、先生の援護射撃のように、その子の悪いところを見つけて指摘しはじめる子がいる。
そんな、じーっと監視してりゃ誰だって、何かしらエラーするだろって思いやりが抜け落ちる。その理由は、その子が悪いからだ。
そして「自分はしない」また「自分がしなくとも、もし見つけたら誰かに伝える」ということもよく言われる。「思いやりの心があればできる」と付け加えられもするのだが、先日、麹町中の工藤校長先生の話を聞いて理解したことだが「思いやりの心」では「思いやりの行動」は生まれにくい。
そこも、行動ベースでその難しさや、作戦を伝える必要がある。
赤坂先生は「いじめ」に立ち向かうには、まず仲間を集めることと言っている。一人じゃまず言えないし、立ち向かえない。仲間を集める重要性を子どもたちに教えると言っているのを見たことがある。
でね、やっぱり「されたことしかできない」と考えると「自分がされて嫌なことは、人にもしない」のは難しいと思う。
「しない方法」が分からないわけだから、選択肢が「するしかない」のだ。
「米研ぎ」をしていてそう思った。
小さいころに「米研ぎ」をさせてもらったことを思い出した
帰ってきて、米を研いだ。しばらく「無洗米」なのだが、この間の集まりが手料理だったため、あまったお米をもらった。そのお米は、洗うやつだったため久しぶりに研いだ。
小さいころに、せがんでやらせてもらったことを思い出した。
母がやっていることをなんでもやってみたかったのだと思う。
当然小さい手では、お米を止めながら水だけ流すことが難しく、シンクにお米がこぼれたのを覚えている。
母はやらせてくれた。そして、失敗を仕方ないと受け入れてくれた。
たぶん、そうしてもらったことがあるのだと思う。失敗をゆるしてもらうということ。
子どもだから仕方ないということ。そういう気持ちって先天的にあるのだろうか。されたことがある。その感情に出合ったことがあるから再現できるのではないだろうか。
対する父。父はあまりやらせてくれたという記憶がない。本当はあると思うのだけれど、失敗してはいけないという条件つきで、戦慄しながらやっていたと思う。
父といて心安らいだ記憶や感情がない。なかなか出会えない。物を買ってもらって嬉しかったとかはあるけど。
もしかすると、父の育った環境が、壊す、汚す、失敗するは「悪い」家だったのかもしれない。
そして、父はそれで怒られることは嫌だっただろうと思う。激しく深読みをすれば、その怒られることが嫌だった父は「怒る」という「されたこと」を私に再現しないために、事前に自分が怒るはめになる事態を防いだため、やらせてくれなかったのかもしれない。
そこには、一択しかない。されたことしかできない。別のアイデアはない。受けたことしか返せない。その選択は、そのときぶつけられた感情の再放送。
そうされたときの自分の感情と紐づいて、そのときぶつけられた相手の感情を再生して与えるというイメージ。
「人はされたことしかできない」のである。知っていても、下手するとそれを選択できないのだ。されたことがないから、それを与えることが想像できない。
そうなると、体験はめちゃ重要になる。自分はどう扱われたのかだけが鍵だ。
「E=mc^2」という物理学の基礎理論と人間
「E=mc^2」この公式について調べるとやけくそに時間が奪われるので割愛するが、Eはエネルギー、mは質量、cは光速である。
これを、好き勝手に改変して想像してみたのだけれど、Eを「何かしら出来事」、mを「自分の感情」、cを「事柄」と考えてみた。
「出来事(E)」が生まれるには、誰かしらの「感情(m)」と「事柄(c)」が二ついる。
ある出来事が生まれるには、感情(動機)と背景となる事柄が必要なのである。
だとしたら、どんな感情に出合わせるか、どんな事実に出合わせるかを考えることで、出来事を生み出すことができる。反対に、ある出来事が起こるには、そこに感情とその背景となる事柄があるってことだ。
やばい!めちゃ当たり前のことを書いていたことに気付いて恥ずかしくなってしまった。
それでも、じゃあ、教師はどんな出来事に注目させているのか、どんな姿を子どもたちに見せてどんな感情を抱かせているのか、私たちは何に注目させているのかを考えると、いろいろと試行錯誤できそうだなと思った。
ないものねだりよりも、あるものさがし
『「なんとかする」子どもの貧困 (角川新書)』の中で、地域のリソースについての文脈で、「ないものねだりよりも、あるものさがし」ということが書かれている。
「気づけていないだけで、あるのかもしれない」そう捉えて考えをめぐらせることは希望への第一歩だと思う。
感情も、事柄も、私たちはいろいろ経験しているのである。探れば、プラスの出来事を再生するデータが自分には含まれているかもしれない。
生まれたときに、人の手に受け取られたか、トイレで生まれてしまったかでも違うというような話を(都市伝説っぽいが)聞いたこともある。
その後でも、私たちは、誰かしらのおかげによって、命をここまでつなぐことができた。
そう気づくことができれば、私たちは周囲の人に快いことを再生できるのかもしれない。いつかされた、幸福な関わりを大切にして、誰かにかかわれるのかもしれない。
感情は偏桃体から海馬に強い印象を与えていて、いつも通りのパターンで私たちは振舞ってしまうのかもしれない。
しかし、少し立ち止まって、振り返ってみれば、自分が確かに幸せに扱われた瞬間はあるかもしれないのだ。
そう思えたら、わずかだが自分の生に勇気が湧いてきて、人に優しくなれるのかもしれない。
私たちは、されたことしかできない。ただ、されたことならできる可能性がある。一番重要なのは、与えられていることに気付くってことだ。
そうして、温もりを回せるといい。
さて。
そうして、己は次に目の前の相手に何の歯車を回し始めるのだろうか。
「E=mc^2」を大切にしている漫画。