かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

過去への欺瞞と未来への不信

今日は目が見えづらいなー。花粉症やばいなあ。と思ったらメガネのレンズが汚かっただけ「ハピペン」です。驚いた。

 

雨もすごい。

靴水没だわ。

 

すみません、ここ数日脈絡なくで。

今日もそんなん。なんかタイトルはカッコいいけど。

 

自分を変化させることは、自分のこれまでを否定することではない。

他者を受け入れることは、染まるのとは違う。

(後段は、Galileo galileiの『ハナマスの花』から)

 

自己変革が必要なように思う。

「未来志向」がちょっと少ないって課題。それが、個性とも思いたいけど至らない。

 

自分に尽くせてない。だから他者にも尽くせないとか。これは、実際どうかってよりは、実感で、事実だけ見たら、お前自分にばっか時間使ってんじゃねーかって感じで、感じ方を変換すればいい。だけど、なかなかそれがしっくり来ない。

 

昨日「子どもと遊ぶように授業がしたい」と言った。

 

今日それをイメージしながら、子どもと授業中に過ごすのだけど、それで感じたことは私の想像する『遊ぶ』って「自由でもないし、ふざけでもない、何かしらの秩序があるものだろう」なと思った。

 

  • 子どもが音に反応して廊下を見に行く。
  • 急に電気を消しに行く。
  • 見てない隙に隣の部屋に行く。
  • 好き勝手話し出す。

「ハピペン」の教室も見方によっては、それなりのカオスがある教室である。

 

ただ、いちいち正さない。

よくないって分かっていてもそうしてしまう。

そこをコントロールできたらここにいない。

 

その時間に付けたい力と、行動抑止は別の課題。気持ちよく学習をしてもらいたい。

これは、全体の子にとっての命題で共存できているなら、とりあえずありだと思う。

たぶん、他にいったら嫌がられるという推測を一般化して、指導することはしない。実際、交流級に行ってそうしたことをするわけではない。どちらかというと、場所を選んで行なっているその判断能力をまず誉めたい。

 

一般を教えるのは、そのシーンよりも、改まった場の方が入ると思うからかもしれない。

 

「その都度」とよく言われるけど、意外と有効でないことが多いと思っている。

なぜか分からないないけれど起こってしまったことについて、後から「ダメだよ」と言われるだけだからである。

そのパターンに行かないためのコツを別の場面で板書でも使って教えた方が良い。

 

一番の問題は、こうしたことに

  • 子どもが音に反応して廊下を見に行く。
  • 急に電気を消しに行く。
  • 見てない隙に隣の部屋に行く。
  • 好き勝手話し出す。

私が単純にイラッとすることだ。

 

だから、『遊び』にルールがあるように、楽しめるルールを共有する必要がある。

そして、その方が楽しいって思えるように振り返るなどして、実感させる。

 

カオスだろうと目標が達成されていればよいのだけど。

 

ある子が座れない時に座れないことをなじったって仕方ないのだ。

それでも、学習が大切で嫌だとは思ってないから何も言わなくても戻ってくる。

 

こうしたその都度のコミュニケーションこそ、『遊び』ってことなんだろうか。

 

その都度の子どもに応じる楽しみ。

 

やらされるではなく、できた方がいいと思ってやれるようになること。

 

大きな問題は、それを30から40人見ながらできるのかだ。

みんなと遊べるか。戯れられるか。

今、それが定かでなくて、モヤモヤしているというのが一つある。

 

来年度が、これまでの全自分を覆す可能性があるかもしれない。そういう可能性の一端がある。

 

ここまで、温室でやりすぎたかもしれない。

今年度、本当は大切な方(職場の人間関係とか?えーでも、用ないのに残ってトークするの嫌だもんなあ)優先できていなかったかもしれない。

 

あくまで、今、ちょっと悲観的なだけなのだけど。

 

まあ、うまくいかなくてもいいよ。うまくいかせようってのがなんか意地汚い気がしてきた。

責任とかいろいろあると思うけど、誤魔化しないから、身一つで向き合ってみよう。

 

やっぱり強さがいる。勇気がいる。

やろうと思ったことをやろう。まだ弾は残っているじゃないか!!