かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「親孝行したいときには親はなし」

相変わらず遅刻するハピペンです(仕事じゃないよ?)

まあ、優先順位があってね。それは、ベンチでやることをやっていたからなのさ!!

 

朝、車を借りに実家に行く。

チャイムを鳴らす。

 

玄関を父が開ける。

 

 

「おはよー」

 

「おはよう」

 

ん?

 

私は、挨拶するのも軽く身構える自分がいると改めて思う。父の不機嫌への適応である。

 

おはようが返ってくる。

それも顔を見あって、トーンが明るく。

 

ありえない。。。

 

胸がジーンとする。

 

なんだろう。。。

 

私はこれを知っているのか……???

 

「親孝行したいときには親はなし」

というが、私は、そんなことを思うときは「ない」と思っていた。

 

けれど、歳をとると親を大切にしたくなる理由が少し分かった。

 

それは、歳をとって親が丸くなるからだ。

もちろんならない親もざらにいるとして。

 

今朝のあいさつで、私は、明るい声と穏やかな表情で関わられた記憶をもっている、と直感した。

 

半ば無理矢理な思い込みかもしれないが、そうでなければ、私はそれを追いかけようとしないよなあと思う。

 

知っているから求めた。

 

そして、どこかにそれがあるから。

「幸せは知っている」という人生だから、ここまで何はともあれ生き残っているのだと思う。

 

老いた親を見て、いつか送られた眼差しがよみがえり、愛を与えられたという感覚がよみがえり、親を有り難く思ったり、愛おしく思ったりする。

 

「覚えてないことも。たくさんあったのだ。きっと。」

 

また、新しい朝がはじまる。