この上ない。ハピペンです。
オレは昨日、心を洗ってきた。
これまで何度かあったチャンスを使ってこなかったから。
今、ちゃんと使う時が来たんだ。
たぶん、来たんだと。
正直、下手したら、ハピペンって生き物は、ボイスレコーダー使われたら終わりかもしれないんです。ギリギリの学級経営かもしれないんです。
焦りと不安と疲れにまみれてね。
そうして、そういう時にできることは、素直に謝ることだった。与えてもらったらありがとう。間違えたらごめんなさい。私にはそうすることしかできない。ごめんなさい。
朝。
心を洗ってきたことを伝えた。
子どもたちは「心って洗えるの!?」と興味津々だったが、それはさておき、どこか思いは伝わったようである。
だって、今日は今年度一最高だったよ。
そういうのは、見方次第なんだろうけど、争いもトラブルも懸念もいくらでもあったのだけれど、少し俯瞰してみているとそのどれも、調和しているような気がしたんだ。
実はどの子も適応していて(し始めていて)、このクラスで生きる術を身につけているようだった。しかも、その術っていうのは、とても厳しく、温室でぬくぬくと整えられた人間関係を味わうのではなく、「もう!本当どうにかしてよ!」というような、私一人ではどうしようもない状況を越えているのである。
考え方次第でそれは至極当然なことなのだ。たとえば、クラスにいる気になるあの子がいるとする。そして、その子はクラスを脅かしているとする(授業不成立への貢献というか)。だとして、それは、その子が安心していないからと言い換えられなくもない。つまりは、その子が安心できない学級は、誰が適応していようと嘘だ。ということだ。
どんなに安定した学級であろうと、ある子が入ったらたちまち立ち行かないのだとしたら、それは嘘ではないか、ということが言いたい。
本当に安定した居場所であれば、誰がいつどう関わろうと不動で不変なはずである。でもそうでない。場所や人によって世界は変わる。つまりは、適応の裏には、適応のための不適応がある。ということかもしれない。