かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

202日目:下がるってことは上がるってことなのよ、お分かり?

この上ない。ハピペンです。

 

オレは昨日、心を洗ってきた。

これまで何度かあったチャンスを使ってこなかったから。

今、ちゃんと使う時が来たんだ。

たぶん、来たんだと。

 

正直、下手したら、ハピペンって生き物は、ボイスレコーダー使われたら終わりかもしれないんです。ギリギリの学級経営かもしれないんです。

 

焦りと不安と疲れにまみれてね。

 

そうして、そういう時にできることは、素直に謝ることだった。与えてもらったらありがとう。間違えたらごめんなさい。私にはそうすることしかできない。ごめんなさい。

 

朝。

心を洗ってきたことを伝えた。

子どもたちは「心って洗えるの!?」と興味津々だったが、それはさておき、どこか思いは伝わったようである。

 

だって、今日は今年度一最高だったよ。

 

そういうのは、見方次第なんだろうけど、争いもトラブルも懸念もいくらでもあったのだけれど、少し俯瞰してみているとそのどれも、調和しているような気がしたんだ。

 

実はどの子も適応していて(し始めていて)、このクラスで生きる術を身につけているようだった。しかも、その術っていうのは、とても厳しく、温室でぬくぬくと整えられた人間関係を味わうのではなく、「もう!本当どうにかしてよ!」というような、私一人ではどうしようもない状況を越えているのである。

 

考え方次第でそれは至極当然なことなのだ。たとえば、クラスにいる気になるあの子がいるとする。そして、その子はクラスを脅かしているとする(授業不成立への貢献というか)。だとして、それは、その子が安心していないからと言い換えられなくもない。つまりは、その子が安心できない学級は、誰が適応していようと嘘だ。ということだ。

 

どんなに安定した学級であろうと、ある子が入ったらたちまち立ち行かないのだとしたら、それは嘘ではないか、ということが言いたい。

 

本当に安定した居場所であれば、誰がいつどう関わろうと不動で不変なはずである。でもそうでない。場所や人によって世界は変わる。つまりは、適応の裏には、適応のための不適応がある。ということかもしれない。