今回は、この本から「境界」について。
- 作者: アスク・ヒューマン・ケア研修相談室
- 出版社/メーカー: アスク・ヒューマン・ケア
- 発売日: 1997/10/15
- メディア: 単行本
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以下はあくまで、持論です。参考程度にされてください。
人の距離感
教室で過ごしていると、自分と他者の領域がごっちゃになっている事案に出くわすことがある。
単純なことで、他者に近づきすぎてトラブルになったり、他者の物をぞんざいに扱ってトラブルになったりということだ。
そういう時、私はその子は「公私の加減」がごっちゃになっているというか、乱れているというか、バランスを崩しているというような考えで見てみる。
人それぞれにテリトリーは違って、その大小、長短、軽重、強弱のようなものには違いがある。にも関わらず、自分の慣れ親しんだ距離感で接するため、その差分がトラブルを生む。
どうしてそんなことが起こるのかと考えてみる。
人はコミュニケーションしないことはできないという公理がある。という前提で考えると、人が出会えばその時点でコミュニケーションが始まる。
そこから、距離感を縮めたり、距離を取ったりして知り合う。
こんな図がある。
どれくらい踏み込んでいいかのレベルがあるわけだ。
個人的には大きく3つの期間に分けられると思う。
一つ目は、「緊張期」で、お互い探り合いの時期だ。
お互いに気を遣っていて、失礼が少ない。ただし、緊張があって、居心地がいいとは言えないような時期。
二つ目は、「解放期」で、いくらか緊張がほぐれているころ。
自然に笑えて、話題を振ったり、振られたりが自然にできる。
三つ目は、「親密期」で、誰もとこの距離感になれるわけではないけれど、話すことに対して選びすぎなければならないという不安がなく、また無言でも困り感のない関係。
何が言いたいかというと、一つ目と三つ目は、セーフコミュニケーションであることが多い。勝手に名付けたけれど、コミュニケーションをした後で、双方に不快感や後悔などの大きなダメージのないコミュニケーションのこと。
問題は、二つ目の「解放期」で何が起こるかなのである。
「解放期」の距離感
二つ目に幅をもたせ過ぎかもしれないけれど、私が言いたいのは、この緊張期を脱した後の自分の出し方によって、コミュニケーションがエラーを起こし、トラブルになると思っている。このコミュニケーションをバッドコミュニケーションとしておく。
「自分の出し方」というのがポイントになる。これは、「自分の慣れ親しんだパターンのコミュニケーション」ということだ。
そのコミュニケーションは、無意識に繰り返され、気を緩めるとつい表出してしまうコミュニケーションである。人は、何度も会う人に対して、何度も緊張期でいることができにくい。
そのため、時間の経過と共に、コミュニケーションは、私的なものになっていく。
そこに権力が加わると、私的なコミュニケーションは存在感を増す。
権力が強い側の私的なコミュニケーションに、弱い立場の人は飲み込まれざるを得なくなる。
すると、一方は緊張状態であり、もう一方や解放状態という状況が生まれる。
この場合、不和を生む可能性が高い。
ただし、この解放状態がセーフコミュニケーション的な場合、双方は安心して関係を続けることができる。
それが、バッドコミュニケーションであった場合、当然、トラブルが起きたり、どちらかが苦しい思いをすることになる。基本的には、権力が弱い方が苦しむ。
コミュニケーションの源流
そして、その「慣れ親しんだコミュニケーション」の源流は、「家」である。
私は、家族は何を引き継ぐのだろうとしばらく考えていた。
初めは、ずっと「価値観」が引き継がれると思った。たとえば、買い物をする時に、それを買った喜びを優先するか、お金がよりかかるかかからないかを気にするかなどは、明らかに育った家の影響を受ける。判断する際の基準や要素が引き継がれるのだ。しかし、価値観というよりは、その判断基準で思考してしまう言語活動が引き継がれると考えた。価値観というよりは、もっとオートメーションで、あらゆるところに影響があると考えた。そして、「コミュニケーションの型」が引き継がれると考えたのだった。
たとえば、どんなコミュニケーションが苦しいのか。
境界と居心地
はじめの方でテリトリーの違いに触れた。
テリトリーに土足で入るか入らないかというようなところが、セーフかバッドかの差になってくると思う。
人には、実は、境界がある。
その境界を知らないと、慣れ親しんだコミュニケーションが発動したときに、誰かを苦しませてしまう可能性がある。もちろん、家の中のコミュニケーションが、簡単に境界を踏みにじらないもので、セーフコミュニケーションであった場合、家の外に出て「解放期」を迎えても、現れるコミュニケーションは、セーフコミュニケーションなので、問題ない。そういう人もざらにいる。居心地の良いあの人のことだ。
しかし、その居心地の良いあの人が、居心地がいいのは、その人の慣れ親しんだコミュニケーションと自分の慣れ親しんだコミュニケーション、つまり、その人の家のコミュニケーションと自分の家のコミュニケーションにどこか似ているところがあるからとも考えられる。そういう意味では、当たり前なのだけれど、人それぞれにどんなコミュニケーションがセーフコミュニケーションであるかは違う。
土足で片足突っ込むようなコミュニケーションでないと、コミュニケーションしたような感じがしない人もいるだろうし、それにひどく傷ついたり不快感を抱いたりする人もいる。
そのバランスを考える上で、とりあえずの境界の示唆があると有用かと思う。
そこから、近づいたり、遠のいたりという測り方ができるからだ。
境界のいろいろ
ここでいう境界とは、自他の境界のことである。
「機能不全家族」という家で育った場合、自他が溶け込んでいて(この状態を共依存と呼ぶ)、境界が曖昧になっていることが多い。「機能不全家族」とは、家族が「決定する小集団」としての機能を果たせず、ある家族メンバーの一方的な感覚や考えや思いによって、他の家族メンバーの感覚や考えや思いがコントロールされている家族を指す。簡単に言えば、対話ができない。一人ひとりの意思が尊重されない。自分のことを自分で決められない家族といったところ。
身体の境界
身体が安全で心地よく感じるための境界です。
- 健康を害するほどの苛酷な仕事をしている
- 疲れて限界なのに、相手の世話をしなければならない
- 性的な接触を強要される
- 暴力を受けている
- あなたの物を許可なくいじられる
- 入ってほしくない人が、自分の部屋に入ってくる
感情と意思の境界
自分の感情や考えを大切にするための境界です。
- 他の人が悲しんでいたりがっかりしていると、自分がうしろめたさを感じる
- 要求されたり期待されると、いやでも「ノー」と言えない
- 相手の反応がこわくて、自分の気持ちや要求を言葉にできない
- 相手に合わせて、自分の考えを変える
- 自分の決定を相手が受け入れてくれるか、いつも不安
責任の境界
あなたも相手も、自分自身の責任において生きるための境界です。
- 相手の問題を解決するため、あなたが相手以上に乗り出して必死になっている
- 相手がやった不始末の責任を、あなたがとってしまう
- 相手があなたの問題を解決してくれたり、あなたを「幸せにしてくれる」ことを期待している
- 相手にあなたの人生上の決断を任せてしまう
これらが、境界です。踏み込んだり、踏み込まれたりしていることが、いろいろな時にあると思います。
これを見て、自分は境界を踏み越えちゃいないかってことが気になりだす。
せめて自分は境界を大切にしたい
自分は土足で他者の境界を越境しちゃいないか。そのシグナルが以下のこれらではないかと思う。
注意:依存ある限り、すべからく人類は、「アダルトチャイルド」である(にちがいない)。そのため、以下の内容が当てはまるのは自然なことです。
ゆえに、当てはまる内容を感じたことがある「=生きづらさ」があるかは、また別の話になる。
「対人関係の不安」
- 人に向かって自分から踏み出せない
- 人のために自分のお金・時間・労力を使い果たしてしまう
- うんざりしている関係なのに一人になるのがこわくて別れられない
- 人に拒絶されるのがこわい
- 人に見捨てられる不安が強い
- 親密な関係がつくれない
- 親密な関係が続けられない
- 人前で自分をとりつくろってしまう
恐らく誰もが感じたことのあるものだと思う。
「不全感」
- 自分が何をしたいのか、どうしたいのかがわからない
- 生きがいや目標がない
- 自分の感情がよくわからない
- どんなことに対しても距離をおいて醒めている
ハピペンは、この気がある(あった?)。しかし、挙式をしたとき、とてもありのままでいられたと思った。自分に確かに感情があると感じられた。そういう物語を紡ぐことができた。
たとえば、ポイントは「よくわからない」だけであって、ないわけではないということ。少しずつ意識して、フォーカスできれば、感情は確かにある。もしくは、クリアでなくとも、違和感としてなんとなく感情っぽい何かはあるような気配がする。
「完全主義」
- ちょっとした失敗でも、自分をとことん責めてしまう
- 予定どおりものごとが進まないとパニックする
- 「よいか悪いか」「正しいかまちかまっているか」で白黒をつけようとする
- 自分にも周囲にも完璧を要求し、気の休まるときがない
論理療法で扱う「イラショナルビリーフ」に近い。
「イラショナルビリーフ」の話
【イラショナルビリーフ】「偏った考え方」について(論理療法より)【7つ】 - かならず幸せになれるいきもの
最後にその他の
アディクション(嗜癖)
何かがなければ生きられない状態。すがるように嗜癖しているコト・モノがあること。
これらは、共依存的なコミュニケーションを行う人がもっている感覚だと考えられる。バッドコミュニケーションを受けて上のような気持ちになるようにコントロールされたり、そのバッドコミュニケーションを嗜癖的な行為等によって緩和していると考えられるからだ。
だからこそ、この辺りのコミュニケーションについての知恵が必要でなくないのだと思う。油断するとどこにでも発動してしまう境界の越境。領域に踏み入ること。領域審判ミスの領域侵犯。
ただ、「どうするとどうなるか」が見えてくると、抜け出し方も見えてくるだろうと思う。
自分の主導権を自分が握るということだ。
この辺りは、「小さな箱から出る方法」や「選択心理学」の話が役に立つ。「アドラー心理学」も助けになるかもしれない。
- 作者: アービンジャーインスティチュート,金森重樹,冨永星
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2006/10/19
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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人間関係をしなやかにする たったひとつのルール はじめての選択理論
- 作者: 渡辺 奈都子
- 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
- 発売日: 2012/12/26
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その上で、セーフティーなコミュニケーションをするということ。セーフティーなコミュニケーションとは、境界を脅かさないコミュニケーションということだ。
健全な依存。健全なモノ・コトへの依存。これらによって、生きやすさにたどり着きたい。